お知らせ

おはようございます。

いつも訪問してくださり心より感謝申し上げます。

このブログには、にほんブログ村のサイトから訪問してくださる方、直接このブログに訪問してくださる方を含め、毎日数百名の方々に訪問していただいております。

ご質問、ご相談を含め、「励みになります」「大事なことに気づきました」「次の投稿が楽しみです」等などたくさんの勿体ないお声をいただき、中にはご批判をいただいたこともありますが、それもまた私の学びとさせていただきました。

唐突ではありますが、今般、私の諸事情によりしばらく投稿を休止させていただきたくお知らせいたします。

投稿した記事の内容、これまでの私の人生、これからの人生をどう生きるかという意味において、己を見つめる時間がほしく、そのことによってまた新な気持ちでふたたび投稿できる日があればなと願っております。

つきましては、ご質問、ご相談についてもしばらくはお休みさせていただきたく思います。

訪問くださっている多くの方々のことを思いますと心苦しく、大変身勝手ではありますが、なにとぞご理解のほど宜しくお願いいたします。

このブログ内のサイドメニューにあります検索ボックスにキーワードを入れますとそれに関連する記事が表示されますのでご利用いただければと思います。

尚、このブログは、にほんブログ村に登録しておりましたが現在は退会しております。

ありがとうございます。感謝

観童

 

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火の玉現象

お宮2

まもなく80歳になる一人暮らしのお婆さんが目眩と吐き気で食欲がなく、元気のない声で遠く離れている娘と電話で話した。

「夜ふとんに入った後も誰かが家の中に居て騒がしくてゆっくり眠れないし、寝不足で体調がすぐれない」と。

実際は誰もいないのだが、誰かいるのかなと思って起きて確認しても誰もいない。

そんなことがちょくちょくあるからゆっくり休めないのでしょう。

娘さんから事の経緯を聞いた私は、そのお婆さんのO家に直接出向くことにした。

高速道路でちょうど一時間、農村部の静かな村の家にたどり着いて中に入らせていただいた。

居間に通されて先ず私の霊覚にはいってきたのは神棚に祀られてある神々の存在「武雷之神(たけみかづちのかみ)、大国主之神(おおくにぬしのかみ)、年神(としがみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)」から流れる霊波動と、亡くなった過去の古い縁者たちの霊波動だった。

神棚から流れる霊波動は神道に登場する神々とはいっても決して心地よい波動ではなく、これまで祀られてはいても必ずしも行き届いてはいないことによる荒んだ状態の霊流だった。

私は真っ先にお婆さんと娘さんに話しました。

「先ずは、ここの神棚に祭ってある神々様への礼を尽くしましょう。」と。

そして私が祝詞を奉唱し終わったと同時に家がドンと揺れ、家の中の空気が清浄に変わって軽くなった。

この揺れは地震かと思えるほどのものでしたが、それは娘さんも認識していた。

その後、家の裏山に祀ってある金毘羅様(こんぴらさま)のお宮まで足を運んで参拝することにした。

金刀比羅宮(ことひらぐう)は、通称こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれ、全国の金刀比羅宮の多くは大国主之神や武雷之神を祭神として祀っているようです

明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が実施される以前は真言宗の寺院ということですが、その後に神仏習合で金毘羅大権現と呼ばれた。

ここのO家の先祖は古い歴史があり、造り酒屋として栄華を極め、住み込みの使用人も数十人もいたという立派な豪商であった。

時代が変わり、敗戦となり、マッカーサー来日以来、大地主でもあった土地を小作の人たちや親せき、縁者たちに分配することとなった。

見渡すかぎり視界に入っていた土地が全部そのO家の所有ですというほどの大地主だった。

あろうことか、詐欺まがいのうまい話をしてたくさんの土地を自分の名義にした村長もいたというが、O家は争いを好まぬ人柄ゆえに現在もそのままになっているという。

今は裏山のお宮が立っているところだけが唯一残っている土地だと聞いた。

百年近い栗の木や楢木がたくさん立ち並ぶ価値ある雑木林なのだが、手入れをする人がいないから山も荒れ放題であった。

元来が山好きな私ですが、若ければこの山の手入れをしながら、木々の成長をみれたらどんなにか楽しいだろうかとも思った。

なだらかな傾斜の山道をゆっくりと落ち葉を踏みながら、足裏で大地の柔らかさを感じて歩を進めること十数分、間もなくで山の上のお宮に着いた。

お宮の立つ姿を見て寂しさを感じた。

建物が古いだけではない。

手入れが為されていないのはみればわかるし、間口一間半四方の小さなお宮全体が傾いていた。

この家では昔は何かにつけては金毘羅様の祭神である「大国主之神」「武雷之神」を中心にして祭りごとをし、全ての恵に対する感謝の意を忘れることなく暮らしてきたのであろう。

子孫代々に受け継がれてくるにしたがって造り酒屋も廃業となり、財産も無くなり、子どもたちも塵々となり、祭りごと事をする者もなくなって今はお婆さんの一人暮らしとなった。

この家の裏山の祭神は近くにある村の氏神神社の御祭神と同じようだ。

私はこのお宮の古く傷んだ扉をあけて祭神に一礼して深く心で念じた。

「先祖代々の祭り事に際して、これまでの御加護と御神徳に感謝申し上げます。そして数々の不行き届きのことお許しください。代(子孫)にかわって心よりお詫びを申し上げます。」と。

そのときだった、先ほどまでは少しの風もなく穏やかであったのにいきなり木が揺れだし、ギギーッ、ギギーッと木々の摩擦する音が聞こえてきた。

「お聞き届けありがとうございます。」

一礼してお宮をあとにしたが、荒れ放題の木々も、お宮の傾いた姿も、一抹の寂しさを感じるものだった。

この日はこれで帰路についたが、翌日に娘さんからいただいた報告では、母の家は久しぶりに何の騒ぎもなく、目眩もなく昨夜は熟睡できたということでした。

少しの時間だけお婆さんの背中と首をマッサージしてはきたが、熟睡できたのはそれだけの理由ではない。

このお婆さんのO家では、かつて先祖たちが栄華を極めていた頃の人間模様の善悪がそのままエネルギーとなって残留していることにも騒がしい原因がある。

今回のようなケースでは、神々がなぜ騒がしくなるのか、神様が災いをするはずがないだろうと思われる方もいるかもしれません。

火の玉

実は、この家の裏山に祀ってある神様を、「今後は誰も祀りきれないから氏神さまに引き取ってもらいましょう。」という話しが過去にあって、村内の氏神神社の神官を頼んでその儀式をしていただいたとのことですが、その日から裏山を中心に火の玉が飛んで村中の大騒ぎになってしまったとのこと。

「とてもじゃないが、このように火の玉が飛んだのでは穏やかではいられないし、大きな災いでもおきたら取り返しのつかないことになる」ということで再び祭祀していた神様を元のお宮に戻すことになった。

そしてようやく火の玉が飛ばなくなったという経緯があり、今日に至っているということでした。

今回の一連の出来事によって感じたことは、人間の都合によって神様を勧請したものの、やがて年月が経ち、子孫へと継承していくなかで祭りごとへの意識が希薄になっていったこと。

そのことによってお宮も、祭神も人々の心からは忘れ去られていき、荒んでいくことになる事例が全国のどこにでもあるということでしょう。

この世は諸行無常の世界です。

形あるものは時代とともに崩れ去り、人間の心さえも無常な理(ことわり)のなかで存在しているものです。

であるだけに神祭りのような、形式と人間の心に深く関わってくるような信仰は、よくよく注意して取り扱わなくてはならないことだろうと思うところです。

日本の伝統であり文化ではありますが、一度想いを発したもの、形を成したものというのは、そこにエネルギーが発生するものだし、形がなくなって後もエネルギーは残留するということ。

人間は古来より狩猟生活から農耕生活へと進展していくなかで、自然現象という人智の及ばないことについて畏怖心をもち、敬ってきましたが、どうしても心のなかだけで為すにとどまらず、形をもって敬うような信仰形態に変わってきました。

神さまをお祀りする所は古代からあったようです。

しかし、最初から現在のような社殿があったわけではなく、 古代は、大木や巨岩あるいは山、滝場、川、海、池などは、神さまが降りられる場所、鎮座される場所と考えられていました。

そして、それらの周辺は神聖なる場所とされました。

いわゆる古神道の思想です。

やがて、そこには敬う場としての臨時の祭場を設けるようになり、さらに風雨をしのぐためといった理由などから、建物が設けられていきました。

そして、中国の寺院建築文化や技法などの影響も受けながら、今日のような神社の形態になったわけです

神社の起源というと伊勢神宮の場合、紀元前43年頃ですから約2050年前の創建ということになりすが、島根県の出雲大社の場合はさらに古く、創建年は不明で、いちおう、創建年は神代とされているようです。

時代の変化とともに神道は神社という形態をとるようになり今日にいたったわけです。

今回の訪問先での祭神については、お婆さんとその子どもたちが相談して、元々の御霊分(みたまわけ)けして勧請していただいた氏神神社に後々はお帰りいただくことになろうかと思いますが、私もまた何かしら関わることがあるように思われます。

その際には再び火の玉が飛び回ることのないように願うところです。

いずれにしても人間の都合で社殿や小さなお宮を建立したとしても、物や形を用意するだけではなく、後々のことを考えて整理することも子孫に迷惑をかけないという意味で心構えをしておかなくてならないと思い知らされる事案でした。

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人に好かれるために生きるのではない

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少しくらい人に好かれなくてもいい。

ひたすら仕事に向き合い、真摯な気持ちで努力をする姿は自分を成長させます。

そして、そういう仕事をしていれば必ず人が寄ってくるものです。

いくら人当たりが良くても、仕事に取り組む姿勢が本気でなければ、雑談の相手にしかされないでしょう。

人の足しになること、役に立てるように仕事をしないでいて、ひたすら人に好かれることばかり意識したり、願ったり、人付き合いのハウツーばかり工夫しているようでは本末転倒である。

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ツワリと霊的視点

吐き気、匂いに敏感、食の好みの変化、ツワリの症状は早い人で妊娠5週目あたりから始まり、週数が進むにつれてひどくるようで、ピークは8週、9週、10週、11週あたりがピークだと言われていますが、症状には個人差もあります。

ずっと軽い症状の方もいれば、ツワリの症状がひどくて動いていられないケースまでさまざまのようです。

通常は12週以降からはツワリの症状がおさまってくるでしょう。

つわりは約8割のママが経験するといわれてますが、まったくツワリの症状が出ない方もいらっしゃいます。

つわりの症状として代表的なのが吐き気ですが、症状が軽い人もいれば重い方もいらっしゃいます。

症状が重い方の場合、嘔吐を繰り返し、口に物を入れられない状態になり、脱水症状や餓死状態になる場合があるといわれています。

今まで大丈夫だったタバコのにおいや生活臭、食べ物のにおいに対して嫌悪感をかんじる事が多くなることもあります。

炊飯器の蒸気が苦手な方も多いようです。

お腹に赤ちゃんがいる間は今まで食べる事の出来なかった食べ物が食べられるようになったり、逆に好きだった食べ物が嫌いになったりする事もあります。

つわりの原因については医学的にこれといった原因が立証されていません。

色々な説があり、心理的な要因によるものがあるだろうといわれる程度です。

「私はツワリがまったくありません。おかしいですか?」という方もいらっしゃいます。

ツワリの時期は個人差があってもその事は本人にとってはつらいところも多く、食事内容やその摂り方を工夫している人も多いことでしょう。

きょうはツワリについてスピリチュアルな視点から述べてみたいと思いますが、過去にも一度つわりについて投稿したことがあります。

部分的に付け加えたり、訂正しながら再度アップしてみます。

自分の肉体と、もう一つの肉体である霊体を支配している魂、この魂のもてる能力はとても偉大なものですが、それに気づいている人はどれほどいるのでしょうか。

私たちは、実在するあの世から、万物の霊長としての偉大な魂と、偉大な知慧を兼ね備えて、且つ、計画を立ててこの地上に出ていますが、偶然に生まれたのでもなく、無計画に生まれたのでもありません。

そして私たちはあの世、次元の違った四次元以降、多次元の世界から、自分が望んで「今度はこの日本に生まれよう」、あの世において、お互いに「あなたは今度はお父さんになって下さい」「あなたは今度お母さんになって下さい」と、あの世で既に約束してきているのです。

ところが、お父さん、お母さんはこの地上に先に出てきます。

生まれてきたこの環境や思想や教育と、長い歴史の中に、人間のつくり出した習慣によって両親は、その中で盲目の人生を歩み、清浄で調和された自分自身の心を見失ってしまいます。

人間は地上に誕生した瞬間から過去の人生における記憶の一切を忘れて新たな人生をスタートさせます。

お互いに適齢期になるに従って、ある者は恋愛や、見合いをして夫婦になってゆき、ある者は夫婦になる約束を破棄し、あるいは夫婦を解消し、いろいろと問題を起こして自分自身が、苦しみをつくってゆくのです。

感動と悲しみ、そして苦しみと、様々な経験をすることによって更なる心づくりをしていきます。

『見えない赤い糸』といいますが、この世において夫婦としてお互いに愛の絆で結ばれる場合でも単なる偶然ではなく、天上界において双方が合意の上に約束をし、地上においてめぐり会っている場合があります。

親子関係についてもそうで、あの世にいるときに約束をいただき、子供は全てを承知のうえで地上に出てきています。

このブログを読んでくださっているあなたも、あの世では、霊体というあの世の肉体を持っていて、お母さんのお腹の中に入る直前まではみな大人なのであります。

そうして生まれる瞬間に、私たちの意識全体が潜在する部分表面化する部分とに分れます。

胎児の体に合わせて魂を小さくして宿り、肉体の成長と共に魂も向上させていきます。

あの世においては、潜在意識の90%が表に出て生活していますが、この地上においては、わずか10%しか表面に出ず、全体意識の90%は潜在しています。

お母さんの腹に入るまでは、90%の意識を持っておりますから、人間はこの地球上に何の目的で生まれてくるかを自覚しております。

胎児の体が人間として形作られる妊娠二か月から三ヵ月位になると胎児に魂が宿るのをきっかけに、ツワリが始まります。

このツワリは単にお母さんの肉体の問題だけではありません。

これはお母さんの心身の波動と胎児の心の波動がひとつのバイブレーションとして同調するまで続くのですが、ツワリが始まって一カ月月から二カ月ぐらいすれば同調でき、やがてはつわりという辛さから解放されるのはそのためです。

霊的な視点からすればツワリはお母さんと、胎児にやどった魂とのバイブレーション(意識波長)が合わないために起こる現象といえる。

先ずは、お母さんが日頃の自分の想念と言動を振り返り自我我欲の部分を反省して改める決心をすること、つまり、心を調えること、そのうえでお腹の赤ちゃんに呼びかけるのです。

『あなたの心と私の心を一つにして親子として心の学修をしていきましょう。

私も心安らかにしますから安心して成長してください。』と。

胎児の魂がお母さんのお腹に宿るときは、今世においてこの地球上の一年間の修行生活は、あの世の百年にも匹敵するだけの、善と悪とがミックスされた厳しい修行所であり、だからこそ魂の修行になるのだということを知っているのです。

嘘と真、建て前と本音、両立と矛盾、喜びと悲しみ、平和と争い、善と悪が並び合ったこの世の中において私たちは本当の魂の修行をして、その道を実践修行してくるということを、あの世にいる時に、誰もがみな納得して生まれてきているのです。

そのようにして私たちの魂の兄弟、あるいは多くの友だちに送られて勇んで地上に出てくるのに、この地上に出てしまうと、五十年、百年間というものはあの世と断絶します。

なかにはあの世の存在さえ完全否定する人もいます。

この世の人生を死というかたちで終わるように、あの世からこの地上界に出てくることはあの世での死でもあります。

地上に出るにあたっては誰もが志を立てて、ある人は、今度は医者になって病める人たちの為に立派に多くの人々を救ってきますといって出てくるのですが、なかには学問、知識の最高峰に有頂天になり、驕り高ぶり、患者を見下して上から目線でものを言うようになる人もいるわけです。

経済的に豊かになると人間は貧しきものを見下したり驕りが心を支配します。

しかし、心ある者は人生の目的を知り、真理を病める多くの人々に知らしめる努力をしてまいりますといって出てくるし、また地上においても人生の意義に気づき自らを反省して謙虚に生きるのです。

誰もがあの世では、人類はみな兄弟だということも、国土には国境があっても、魂には国境がないことも、人種差別がないことも悟っています。

この地球上へ出れば、それぞれ長い歴史の中で、私利私欲、自我我欲に基づいて、宇宙の細胞であるその地球上を占領して、ここは我が国であると、お互いに国と国との争いを繰り返しておりますが、そうした争いがあるのはこの地球上と地獄界だけです。

人類の魂は90%の潜在意識があの世では開いており、そのために自分の心で思うことは、即座に相手にも通じてしまう世界なのです。

それだけに悪い心が起これば、即座に心から光は消えてしまいますから自分ですぐ反省します。

なぜこのように心が暗くなったのか、その原因を追及して再び反省した時に、自らの魂は燦々(さんさん)と光り輝くのである。

人間が心を曇らせるのは自分白身が物質の奴隷となり、守銭奴となり、地位や名誉に固執した偏った価値観に執着するからに他なりません。

そしてまたあの世においては「今度こそは、今度は正しい生き方をして悟ってやるぞ」といって決心をして出てくるのです。

この地上に出て、わずか10%の表面意識では人生を渡っていくために、私たちの心というものはどうすべきかという点において盲目的であり分からないものです。

人間の弱さはこの点にあるといえますが、それだけにこの地上での学びの深さが違います。

そのために誰もが今を自由に行動をしておりますが、本当は暗中模索の人生ですから、それがまた心をステージアップするための修行でもあります。

このことは実在するあの世においては今度こそ使命を果たしてきますと送られて出てくるのですが、その約束を破棄して、自分勝手な行動をし、エゴに走り心を汚していきます。

こういうことを誰もが知ったならば、今、両親に対して感謝する心を行為に現わし親孝行するのは万物の霊長として当然なことであることも理解できるでしょう。

ところが現代の人々のなかにも、そのような心の持ち合わせはなく、親が勝手に生んだのだとか、教育するのは親の当然の責任だという者もいる。

子どもの頃の家庭環境が悪く、親自身もエゴで身勝手な言動をしているところの子どもなら気の毒で致し方がないところもあるのだが、自分が大人になっても、あるいは親になっても自分の親に感謝と報恩の心がないようでは如何なものかということです。

貧乏に生まれれば、『なんでうちはこんなに貧乏なのよ』と、親に不満を言い、世間を恨んだりする子どももいます。

これはしっかりと愛をもって諭してあげなくてはいけません。

この地上へ出てくる時、あの世においては、金とか、地位とか、名誉とか、こんなものは心のステージアップには関係ないのだということを私たちは、本当は悟っているのである。

ただひたすら永遠に変わらないところの私たちの主(あるじ)である魂、この魂を磨くということがまず第一だということを。

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開ける境地

竹禅語に「百尺竿頭に一歩を進む」という言葉があります。

百尺の竿(さお)ということですから一尺は約30センチの百倍だと30メートルの竹竿ということになりますが、竹竿としてはおそらくそれほど長いものはないと思います。

要はそれほど長い長い竹竿という意味でしょうし、この長さは人生の長さでもあり試練でもあろうかと思います。

その長い竹竿の末端まで昇って行って、もう先がないというところから更に一歩足を踏み出せというのです。

当然そのまま歩を進めたら落ちるのですが、しかし、そのような覚悟と勇気をもって今の逆境から、試練から一歩踏み出しなさいと教えています。

すでに努力・工夫を尽くしたうえに、さらに尽力すること、また、十分にやったのだが、最後にもういちど死力を尽くしてみることで新たな気づき、発見、境地が拓けるものだということです。

私自身もこれまでの人生で何度も試練を乗り越えて今日に至っております。

思い煩うより行動してみて拓ける境地があります。

開き直って、新たな局面にジャンプする覚悟をもったときでなければ成せないことや、発見もあります。

それができたときに初めて新たな自分の力を知ることになります。

そして、苦しくても、より大きな目標に向かっての努力は自分を成長させてくれます。

夢中で今を過ごしていればいつかは分かる時が来ます。

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輝く魂

2617_DSCN5160振り返ってみれば一年という歳月の流れが尋常ではなく早く感じられ、あと半月もすれば今年も暮れて、新たな年が始まります。

我が家のまわりには10センチほどの積雪がありますが、今の時期にしてはめずらしく冷たい雨が降っています。

朝夕に上着の襟をたてて歩くようになってきました。

この日本においては春夏秋冬の四季がはっきりしており、私たちの情操にも強く影響を与えてきます。

そしてこの四季は年間を通して人間が生存するにふさわしい気候と恵を与えています。

太陽は人類誕生以前から今日まで、寸分の狂いもなく地上に光とエネルギーを与え、国境や人種差別もなく、富める者、貧しきものをも分け隔てなく照らしてくれています。

人類誕生以降、歴史は繰り返すと言いますが、大きな流れはそうであっても、人の一生はいつも新たな経験に彩られ、様々な人生を描いてゆくのが定めのようです。

しかし、新しい経験が満ちているほど私たちの心は豊かになり、以前にも増して、より広い寛容な心が開いていくものでしょう。

試行錯誤の人生は、多くの気づきとなる場合もありますが、人によっては迷妄と執着をつくり、返って心を小さくさせ、人生の意義と目的を見失わせることもあります。

否、そうした人生も多いようです。

苦しさに耐えきれず心病む人もいるでしょうし、恵まれた環境に気づけずに不満や愚痴をいって日々不調和な暮らしをする人もいます。

『木を見て森を見ず』のたとえのように、目先のことにとらわれて大きな流れをみることができないのもまた人間であろうか。

3次元的な視点でものごとを捉え行い、それに執着しやすいということもいえます。

言い換えれば、目に見えるものや出来事には価値観をもてるが、かたちに表れてこないことに関しては価値観を見いだせず、否定的であるということもあります。

執着から脱却するには4次元的視点、つまり調和された心を常に忘れぬ生き方をすることで最小限度にとどめることが可能となるものです。

目に見えないことを大切にするというのは、心を大切にするという意味ですが、これを非現実的ととらえるのではなく、常に自分自身を客観的な視点で見ることも大切かと思います。

私たちは大自然のなかでこそ生かされているのであり、その大自然の秩序はそのまま人類調和の為の支柱であることを自覚し、深く私たちの心に落とす必要があります。

人間の精神も肉体も、大宇宙の意識のはからいによって創造され生かされていることは明らかで、この生かされている感動を、私たちがどう報いるか、生きるか、思考するか、行うかによって、万物の霊長たる人間の在り方があるのでしょう。

正しい生き方、正しい心の在り方は一つの法則として、真実と大地のうえに立つものでなければならないし、宇宙大自然の秩序に沿ったものでなければならないと思うのです。

人はこの法則から離れて生きるわけにはいかない。

この法則から離れたときに怒りが生まれ、世界が争う戦争にまで発展してしまう。

真実というものは素朴で平凡な事実の上にこそあるものだと私は何度も実感しました。

そして真実というものは、知識や理論のなかにあるのではないということも実感しました。

自然界には私心のない正しい教えがあり、それこそが私たちの心に気づきの機会を与えてくださいます。

私たちは大自然の秩序、宇宙の法則に沿ったい生き方を心の支柱として生活していかなければならないでしょう。

中道の精神、即ち、心を調和するということは、春夏秋冬の季節に学び、宇宙の法則のままに生活することにほかならないと痛切に思い知らされます。

願わくば、絶望や失意、委縮、悲しみ、怒りに心を向けるのではなく、明るいものに目を向けて生きたいものです。

明るいものとは、発奮であり、忍耐であり、挑戦であり、勇気や少しの努力です。

心に光を灯すということは特別な事ではなく、前を向く小さな勇気です。

そして「もう駄目だ」ではなく、「まだ駄目だ」という前を向く心の勇気です。

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宗教と科学の調和

太陽系今から約149年前、薩摩藩と長州藩の連合が成立し、中央集権統一国家の建設と日本資本主義の起点となった明治維新をきっかけに西洋の文化や物が勢いよく日本に流入してきました。

明治以来、日本人は何でも西洋の文化や物に影響されて、良くも悪くも化学優先の考え方が染み込んできたところもあります。

さて、自然科学に目をむけてみますと、義務教育がいきわたっていることもあり、現在では小学生でも地球が動くことを知っている子は多いことでしょう。

古代ギリシャ時代には地動説(この太陽系は太陽を中心にして地球が廻る)が正しいと信じられていたのですが、いつの頃からか天動説(地球を中心にして太陽が廻る)が説かれるようになったとあります。

その発端は、ヨーロッパにおいては、キリスト教の牧師が民衆の教育の実権を握っていて、牧師の言うことはすべて神の名によって正しいこととされているなかで、教会で天動説が説かれていたところへ、司祭、天文学者、法学者が地動説を唱えたために、こういった人たちは神を汚すものとして宗教裁判にかけられました。

そういった経緯もあり、今から約400年前の人達はみな天動説(地球のまわりを太陽が廻る)が正しいと思っていたところがあるようです。

コペルニクスに続いてガリレオ・ガリレイ(イタリアの物理学者、天文学者、哲学者)が望遠鏡を作って月面の凹凸、銀河、木星、金星、太陽の黒点などを観測し、1636年にコペルニクスが唱えた地動説が正しいことを発表しました。

そのためローマ法王から宗教裁判にかけられて、地動説を放棄しなければ死刑にするといわれ、死を免れるために法廷では放棄することを認めたのですが、ガリレイは法廷を出たとたんに、「それでも地球は廻る」といった話は有名であります。

宗教家が神の名によってと語り、科学の研究の成果を否定し、科学者は、宗教家は神の名によって正しい科学のあり方を否定して、間違ったことを民衆に教えているといい、ここに宗教と科学は完全に対立することになったわけです。

検証可能な事実を対象とする科学と、信仰の理由をあえて求めたりはしない宗教とでは、相容れないところがはっきりしています。

人間の欲求に対して別の立場から答えを出しているわけですから、本質的には相補的なものであるといことも否めません。

科学者はスピリットワールド(霊世界)やゴッド(神)を否定して、物質の中にある法則を追及してきました。

しかし、原子物理学が発達するにつれて優秀な科学者は神の存在を認めるようになりました。

日本の湯川秀樹博士が中間子理論を発見された時の下記の言葉は有名であります。

『物質を分子、原子、素粒子と細かく分析して行くと、すべてのものは目に見えない存在になる。このことを考えると、目に見えない存在の奥に、神とでも呼ばなければほかに呼びようもないほどの、不思議な力が働いているということを、素直に認めないわけにゆかない』と。

約400年間、科学者は宇宙創造唯一の神の存在を否定してきましたが、今は偉大な科学者たちは皆、科学の発見した法則の奥に神の存在があることを肯定するようになりました。

しかし、かつてテレビ番組で放映されていた日本の科学者で、霊世界に関してはまったくもって聞く耳持たず、頭ごなしに否定をしていた人がいましたが、目に見えることしか信じることができない、科学で証明できないことは信じられない、非現実的だと豪語していたことを記憶しています。

一方では、神の名において、間違った天動説を信じ科学を否定してきた宗教家たちが、やがて天動説が間違っていたことを認め、科学者が発見したいろいろな法則を信ずるようになったわけです。

全く相反する立場にあった宗教と科学は次第に接近を深め、現在に置いては、宗教は精神的面で神を求め、科学は物質面で神を知るものであるという事がわかり、宗教と科学は一致するもので有るということが、少しずつわかってきたように思います。

色心不二、色即是空、空即是色という言葉が示すように、肉眼でみることができない世界からこの3次元世界が存在されてきたように、この世の存在もやがては次元の異なった4次元世界、すなわち見えない世界へと姿を変えていきます。

ここに宇宙の仕組みである循環の法則、つまり絶対唯一の意識が遍満しているわけです。

こうしてみるとスピリットと科学は深い関係をもち、人類社会に欠くことの出来ない物心両面の姿であり、精神と肉体、精神と物質の両文明が進むにつれて、スピリチュアリズムと科学は切り離す事の出来ないような社会に変わっていかなければと思います。

そうしてまた、科学はこの3次元現象界の時間と空間を超越して精神界に入り、正しいスピリチュアリズムの姿、あり方を実証してゆくことになるだろう日があと200年もすれば実現するのではないだろうか。

そのためには先ずもって現代の日本における殆どの宗教の在り方を他力本願(他力信仰、依存型、ご利益信仰)から、自力本願(調和された自分の想いと生き方が創造の原点)に改めなければならないでしょう。

そして宗教家自身が金や地位や名誉などの執着から離れなければ心を説く意味を成さないと思います。

私のような宗教に関してまったくのド素人にもわかる現代宗教界の多くの矛盾は、悩み苦しむ人々を更に迷走させる罪深い扇動と思えるところがあります

宗教界は自然宇宙の法則と秩序のなかに人間の本来あるべき調和の姿を見出し、それを学びとしていくことが原点であると思うのですが、現実はあまりにも営利主義と地位に走る教団の多いことばかりが見えるのは残念でならないが、このブログを訪問してくださったあなたはどう感じておられるのでしょうか。

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宗教観の変容

樹木葬写真は樹木葬のようすですが、最近わたしの知り合いがおこなった樹木葬で一区画30万円、埋葬費用が5万円、一年間の管理費が無料、あとの費用負担は一切なしというケースがありました。これなどは格安で良心的価格の部類かと思います。

近年、これまで何の疑問を持たず受け入れてきた冠婚葬祭、葬儀に対する価値観の変化は著しいものがあるし、お寺が破綻する事例も全国的に出てきています。

理由は、これまでの葬儀内容では墓石だけで百数十万、墓地代が発生すれば更に百数十万以上の費用がかさむスタイルに代わり、最近の葬儀方法や埋葬料などは比較的小予算でできるメリットがあることと、人々の死生観の変化が背景にあるところがその理由でしょうか。

したがって現在、僧職にある人にとっては、これまでの方法で檀家制度に安住していることが難しい時代となってきたところがあります。

さて、私がこれまでブログ上で取り上げてきた話題には宗教に関する問題もあります。

一般的にはあまり知られていないような諸問題が宗教の世界には数多く存在し、人々の苦悩を救済するはずの宗教に入信し、人格まで崩壊されてしまうような悪質なマインドコントロールによって翻弄され、人間関係や家族の破綻にまで追い込まれてしまうケースもあります。

宗教は人に押し付けるものであってはなりません。

本来、信仰は家族も他人もなく、個人の自由意思によるものであって、自分が信仰をもっているからといって必ずしも家族もということにはならないでしょう。

他者の信仰や他宗教に対しては敬意を払いたいところではありますが、しかし、それ以前に、社会常識という観点からしても疑問をもたざるを得ないような教義や団体の行動も見受けられる点を考えますと、やはり是は是、非は非として現実を見極めていかなければならないでしょう。

私は、人々の信仰を否定しませんが、押しつけがましく勧誘したり、選択の自由、信仰の自由が侵されたり、悪質なマインドコントロールに陥ったり、危険な宗教団体に入信するのだけは気をつけなくては思います。

宗教界も布教、あるいは宣教したいのなら、布教、宣教の方法を考え直すべきでしょう。

心の学び、時には救済ということもあるであろうはずの宗教が、個人の人格や社会を破壊し、家庭を崩壊させ、人間の心を蝕むようなものであってはなりません。

そして、私たちが知っているか否かにかかわらず、私たちの精神性や、社会における常識・文化・慣習などといったものは、良くも悪くも多分に宗教が礎になっています。

これは世界に共通することかと思います。

但し、それは古来の日本の神道や渡来の仏教、正統派のキリスト教などの伝統宗教によるところが大きいでしょう。

例えば、先祖を敬う心は神道の祖先崇拝に端を発していますし、「いただきます」「ごちそうさま」といった食べ物への感謝は、仏教の教えによるところがありますし、こういった思想はキリスト教にもあるでしょう。

気を付けなくてはならないことは、宗教に入信することによって、あまりにも傾倒しすぎるがために、これまでとは違って不自然で偏った言動がでてくるようでは、その宗教の弊害でしかないということです。

こうなると妄信、狂信といわざるを得ません。

入信したものの、何かしら疑問をもちながら集団心理に流され、洗脳され、自分の依存心ゆえにすがって盲信していきます。

近年は、残念なことに商業ベースで宗教を利用する団体が多くなりました。

多くの新興宗教では、多額の布施や献金を求め、信者数を増やすことがノルマにもなっています。

信者はマインドコントロールのために従いますが、気がついたときは取り返しのつかないほど心に傷を負った人や、金銭的負担を強いられて家庭が破綻した人もいます。

宗教に対するイメージが悪くなってしまったのは、こうした事実が背景にあることも否めません。

「信教の自由」は選択の自由という意味においては好都合なのですが、それだけに無法地帯になりやすい部分でもあります。

かつては〇ー〇真理教が法を犯して殺人まで行われるまで法の手が下せなかったという悲しい教訓があります。

社会的にも、道義的にも、法的にも許されることではありません。

長時間人を監禁したり、押しつけがましく勧誘したりする行為は、本来は犯罪になるはずです。

広くいえば結構な数の存在がみられる霊感商法も宗教被害の範ちゅうに入るでしょう。

どんな宗教も、そして宗派を問わず、自分の外に心を向けさせて、自己の内面にある原点を探究させない、学びをさせないという意味からいえば他力信仰といえます。

他力信仰はそのままご利益信仰のスタイルをとります。

他力信仰は、信者の心を教祖に向けさせ、あるいはご本尊と称して仏像や曼荼羅(まんだら)や写真に向けさせ、祈ることによって幸せになれると説くことや、運命が良くなる、業が解消される、病気が治るなどと説くことも他力信仰の特徴であり、それが依存信仰の土壌となり健全な人間の心を弱体化させることにあります。

日本国内の宗教でも、多くの宗教がご利益を説いていることも事実です。

宗教にご利益を求めるのではなく、人生をいかにすれば心安らかに生きることができるのかを学び、そして人間の苦悩の原因であるエゴの姿の真実を知っていくことこそが宗教で学ぶことだろうと思います。

人間の生老病死について、如何にすれば苦悩せず生きられるかを説いたゴーダマシッダルタ釈迦無尼仏は一言もご利益があるなどとは説いていないはずです。

私たちは自身の心の在り方によって、どのようにも生きられる可能性を秘めた、尊い心をいただいた存在であることを忘れてはならないと思うのです。

そういった意味では、宗教団体に入信していなくても自分自身の心の尊さを知り、日頃の生活を学びの糧として心を調和し、明るく生きている人たちもいます。

こういった人たちこそ自分の人生の真の達成者となるでろうと確信します。

このブログを読まれている方でも宗教に疑問を持たれた方もいるかも知れません。

「“宗教” ではなく、“まちがった宗教団体” と書くべきでしょうか。

宗教界では億単位のお金をかけた立派な金ピカの神殿、社殿、伽藍が競って建立されています。

私は「地球こそ大神殿」だと考えていますから、立派な伽藍(がらん)や社殿は心の在り方を学ぶのに全く不必要であると捉えています。

心の成長、気づき、悟りを目指すときに、立派な寺院や神社、教会に拘るほど本来の目的からは遠ざかるでしょう。

地球こそ神殿であり、心こそ大神殿ではないでしょうか。

この大神殿という心こそが神仏の宿る唯一の場所だと思うのです。

建物やご本尊に神仏が居るが如くそれを人々に拝ませるようなことであってはならないし、そのようにして拝することが真の宗教だとは思えません。

そして宗教被害の絶えない中身のない、偽りの教団ほど立派な数十億もの建物を建てる傾向にあり、形に目を奪われた信者たちは自分が闇を迷走していることに気づけないでいる。

他力信仰を捨て、自力を歩む、すなわち真実の自己探究に入るということの、なんと困難なことでしょう。

教団の教えを観念的に理解し、知識は豊富なのですが、教団の意のままに盲目的な実践を続けることが、どんなに危ういことかを思い知らされることでしょう。

時代の変革とともに人々の価値観はいつも変わってきましたし、これからも変わっていきます。

そしてこの世も時の流れとともに無常なものです。

それは般若心経にも示されるように、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色と、自然界における循環の法則、輪廻転生、そして人間の心と肉体の関係にもいえることだろうと思います。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。

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孤独と心の成長

9444661_624寂しさ

苦しい現実をあれこれ語り、ご主人のこと、お金のこと、じぶんの体のこと、それらを全部悪いものと位置付けて並べていたら本当に心も体もおかしくなってしまう。

楽しいこと、嬉しいこと、優越感を感じられるような事、お金に不自由しないことだけが自分を成長させるものでしょうか。

少なくても私の人生経験では、そのときだけをみれば非常に辛く受け容れがたいこと、いわゆる試練という言葉の意味するような状況におかれたときのほうが自分を成長させてくれたと後で気づかされます。

一人が寂しくて嫌だという考え方もありますが、寂しいと思う気持ちの延長上には、そのことによって自分がみえなくなり道を見失うこともあります。

当人にすればその気持ちは本当に切実ですから何かで埋めようとするか、その現実から目をそらすために見ないように抑圧してしまうこともあるでしょう。

この寂しさ、淋しさ、というのは人間が本来もっている感情であることが多く、気づかずとも抑圧していることが当たり前になっていることだって少なくありません。

相談者と話していると、ご本人は意識していないとは言いながらも結構、深い寂しさや孤独感といった感情をうかがい知ることがあります。

こういうときのカウンセリングルームは、ひんやりと、冷たく、重いい波動に満たされることが多々あります。

これは言葉以前の感覚ですが、割と的外れではありません。

その感覚、その空気がその方にとっては日常的で当たり前すぎて「何も感じない・意識しない」ようになってしまっているのかもしれません。

こういった波動というものは、知らない街に行った場合も感じられる感覚と共通しています。

その街の空気といいましょうか、ずいぶんと違うものです。

少し話が逸れましたが、淋しさ、寂しさというのは必ずしも一人だから寂しいということでもなく、周りに大勢の人がいるのに寂しいと思う人、思う時があります。

むしろ一人の時より、大勢の人がいるなかでの寂しさが余計に堪えるということもあるでしょう。

その理由は千差万別、人によって状況も違い、内容にも違いがあります。

人は何かに依存して生きていると言ったら間違いでしょうか。

観方を変えたら、人は相互関係のなかで生かされているともいえるでしょう。

人の輪から離れてしまってる感覚としての分離観が孤独を感じて寂しいという感情となって湧きあがってくることもあります。

必要なこと

この世に無駄なものはないとすれば、寂しいという感情にも存在意義があります。

そういう目で見ていけば、悲しみや嫉妬、怒りや罪悪感といった感情にもそれ以降の心を成長させるということを考えれば意味はあると思うのです。

ネガティブな感情を経験することで、このままではいけないなということに気づき、そこから前に向くことの大切さを知るとなればネガティブ思考の経験も生かされることになります。

そして孤独の時間が自分を成長させてくれる時間でもあるというように捉えますと、一人の時間もいいものです。

しかし、人間、寂しいときは人恋しいものであることはかわりません。

他の存在があることで自分の存在を感じたいのかもしれません。

同時に、自分が必要とされている実感を求めたくなることもあるでしょう。

否定や、無視、非協力的、自分が認められていない、と感じたとき、二人でいるのに寂しさの方が、一人でいる時の寂しさよりも強くなるのかもしれません。

人は、何かと繋がりたく思うのですが、これも寂しさという感情の一つの裏返しかもしれませんね。

それだけに、得た繋がりはとてもかけがえのないもののように感じることでしょう。

その存在に喜怒哀楽を感じたり、大切にしよう・・・と心に誓ったり。

人間の心に潜在する寂しさの原点は人によって違いがあります。

幼少の頃の家庭環境も少なからず影響しているものです。

誰もが味わう感情としての寂しさ。

しかし、人間はこの寂しさの中でも成長します。

寂しさを感じるということは。

これまで寂しさを感じなかったときには気づくこともなかった

自分の無力や

耐えることの限界を知り

自分以外の人たちと自分との間にある

距離を実感し、そこで考え、悩み、苦しんだりします。

寂しさということを実感し

はじめて、他人もまた味わっているであろう孤独感への

心穏やかな、

優しい、思い遣りの心をもてるのだろうと思います。

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苦悩する人間の業

悩み苦悩

『死んだら楽になれるかもしれない』そう思った時もあると告白する相談者。

人間の苦悩というものについて相談者と向き合うと、必ずでてくる問題が、悩み苦しみの元となっている心の使い方、その人の癖が表面化してきます。

うつ病と診断されて向精神薬を服用している人。

時々パニック症状に陥る人。

対人関係において問題を抱えやすい人。

何かと新たな問題が発生しやすい人。

抱える問題は異なっていても、その問題の原因を深く探っていってたどり着くところが、その人の人生観、心の在り方、生きかたということになってくるケースが多くあります。

相談者と向き合うときにいつも思うのですが、心の仕組みについて、心の偉大さについて、尊厳というものについて知っていただき、これまでの生き方を少しだけ変えていければ随分と安らぎのある生活ができるのにと。

人間は心の安らぎがあってこそ平和も実感できるものであろうし、幸せと思えるものではないでしょうか。

初夏に、我が家のまわりで子育てをしているスズメたちをみていると、微笑ましいほどに一生懸命にヒナを育てている姿に感動します。

本能のままに生きている姿は、知恵ある人間であるはずの不調和な生きかたよりも、ときとして純粋にさえ思えることがあります。

人間は知恵のある動物という意味において他の動物とは異なった存在ですが、しかし、万物の霊長ともいわれる人間でありながら、その人生には苦楽があるのは何故だろうか。

苦楽の原点は、私たち自身の心の在り方、この一点にかかっています。

あの人が悪い、あの人のせいだ、霊のせいだ、あのことを切っ掛けにこうなってしまったといって他に責任転嫁をしているうちは心の安らぎが生まれることはない。

どうしてこうまで人間は他を許せないのだろうか。

他を許せないということは、そのまま自分を自縛していることに気づかなくてはならないと思うのです。

実際に相談にくる方々の内情を確認すると、決して他人のせいばかりではなく、多少なりとも自分自身にも原因があることも浮き彫りになってきます。

真剣に事態を改善することを考えるならば、たとえ相手に少しの落ち度、多くの落ち度があったにしても、そのことを理由にしたり、相手のせいにしたり、責めていては決して自分自身の心が苦楽からの解放はないということです。

人間は、往々にして自分自身の対応を変えるということで事態改善の最も有効な方法であることには気づけず、相手が変わることを望んでいる場合があるものですが、しかし、これでは事態の好転はのぞめないことのほうが多い。

それでは自分の何を変えるのかということですが、「私は間違っていない」「相手が間違っている」というこの気持ちを主張するほどに距離感がうまれてくるというリスクを考えますと、先ずは自分が正しいという気持ちがあっても謙虚に相手を受け入れるという姿勢をみせること。

ここから事態が変わってきます。

しかし、これができないのも自我心をもった人間ゆえの愚かさなのでしょうか。

仏教の教えにある「五蘊ごうんという言葉、般若心経にもでてくるこの五蘊という言葉。

これは、人間は肉体五官に心が傾き、形あるものに囚われ、心が外にのみ関心が移ってきますと、ものの本質を知ることもなく、やがては争いや、足ることを忘れた欲望がつのってくるようにできているということを教えています。

私たちの身の回り、現実社会にはそういった場面が数え切れないほどに存在します。

物質至上の考えが人々の心を支配し、かつては高度経済成長の名の下に、物と金の渦の中に巻き込まれていきました。

結果、公害、インフレ、物不足、そして、人びとの心は荒み、エゴと争いが巷にあふれ出ることになりました。

それは今でも世界のあちこちで見られる現象であり変わりません。

歴史は繰り返すといいますが、人が物にとらわれ、五官六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)に心が片寄り、自分を失って来ますと、残るものは争いと、苦しみ、悲しみだけとなります。

こういった人間の欲望は個人の問題だけではなく、国レベルでも行われ世論の反発をかっています。

中国が海を埋め立てて軍事拠点をつくるという既成事実を元に、我が国の領海だと主張する強引な行動が近隣諸国との摩擦を生みだしていることがそれです。

いつまでも過去に拘り、いつまでも相手を責め立てる手法は、自分の利益を目論んでの策略である場合が少なくありません。

何かのせいにすれば都合がよいという自己保存の心理と策略です。

こうしてみると人類の歴史は、五官におぼれた苦楽の歴史といっていいかも知れません。

人が苦楽の中におぼれるかぎり、人も社会も、世界も安らぎあるものとはなりません。

このことを根本的な心の仕組みとしてよく理解していかなければなならないと思うのです。

心の不安は、心を外に向け、その出来事、すなわち事象にとらわれ執着すると起こり、自分の肉体感覚に執着すると起こります。

苦しいからとそのことの一つ一つに心を向けていては苦しみから脱するどころか、更に不安や恐怖心の中に埋没することになります。

こういう心の使い方を私は「心の傾向性・癖」といっていってきました。

安らぎは、心を内に向け、自分の心の状況をどういった傾向性があるのか把握し、偏りがあれば、それを正しい心の法則に適った反省と実践の積み重ね生活から生まれてきます。

自分を変えることができるのは他人ではなく、最後は自分自身であるということ。

学んでも学んでも同じところをグルグルと回って、自分の悪しき癖から脱出できないでいる、不要な拘りのある生き方はいつも苦しみしかなく、それは学びそのものが知識でしかないということでもあり、何ら生活の中に実践されていない結果でしかないということ。

結果がでてこないと嘆いている人の生活ぶりを見聞きしますと、やはり学んだことを知識としては知っているから理屈はたつのですが、行いが伴っていない場合が多いものです。

そして、でも、しかし、だって、と言葉のまえに言い訳が先に口をついて出てくる。

これを称して「業・カルマ」ともいえる。

人間は誰もが未完成のままなのかもしれませんが、せめて、さまざまな人との巡り会いのなかでたくさんの経験をして、そして自分に気づいて、自分自身のパーソナリティを築いていきたいものです。

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