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怒り 2017/6/16(金)

「キレる」という言葉を知らない人はほとんどいないだろうと思われるくらい知られた言葉だろうと思います。

この言葉はどちらかというと若い世代に向けられた言葉でした。

しかし、最近のニュースでは、駅員に暴言を吐いたり、タクシー運転手に横柄な態度で接したり、公共の場で「キレる老人」が取り上げられるようになった。

職場や公共の場でもどうしても感情を抑えられない人がいます。

一度私も経験があります。
スーパーに買い物に行ったときのこと。

ちょうどいいタイミングで正面入り口脇の駐車スペースが空いていたからスムーズに車を停められたとおもった直後に、何やら外で
60代後半かとおもわれる女性がわめきながら私の運転席側に近寄ってきて怒鳴っている。

窓を開けると「私が停めようと待っていたのに何であなたが先に止めるのよ!」と物凄い形相で怒り狂っている。

「それはすみませんでした。気づきませんでした。どこで待っていたんですか?」と尋ねると。

「そこですよ!」と指さした場所がスーパーの正面入り口ドアの前に玄関をふさぐように駐車してあった。

ドアの前には「入口につき車を駐車しないでください。」と立札ある場所だった。

この人には話すことも無駄だと思って
「すみませんでした。いまここから車を出しますからどうぞ停めてください」と言ったら
「もういいです。」と買い物もしないで勢いよく駐車場から走り去った。

何とも後味が悪く気の毒にさえ思えた。

日々カウンセリングをしていて見えてくるのは「怒り」という感情が相談者やその家族、あるいは関わっている人たちのなかにも至るところに渦巻いているということ。

しかも、自分自身が何に対して怒っているのか明確にわかっていない方が少なくありません。

だからこそ、常にイライラしていて、些細なことがきっかけで怒りを爆発させるわけです。

いわゆる「キレる」人が増えているように思えてなりません。

何故キレるのか。
上述の様なケースは、自分が停めようとしていた場所に後から来た車が停めてしまったことに激怒しているわけですが、ご本人は自分の駐車していた場所が他のお客様方のご迷惑になることなどは全くお構いなしです。

つまり、自分の傲慢さ故に駐車してはいけない場所に車を停めても迷惑だということにさえ気づけないわけです。

こういう人間は自己中心的な気持ちが非常に強く、自分の思い通りにいかないことがあるとすぐにキレてしまいます。

だから気の毒と思ってしまうのです。

自分が見えていない人ほど感情的になります。


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エゴ 2017/6/10(土)

男と女であるが故に、ともに必要とし、ともに暮らしながらも行き違い掛け違い、傷つき、ようやく大切なことに気づく人もあれば、離れて別な人生をゆく人もいます。

この地上生物、特に動物植物は雄雌があり男性女性があり、それは互いに相反するようなかたちをとりながらも実は共存関係にあるということがわかります。

ですから男と女が相互協力しなければ子孫の繫栄もなく、家庭の調和もないでしょう。

こうなると人類は滅びるだろうし、この絶対的な仕組みは何人も侵すことができません。

愛と憎しみは別な心の現れ方ですが、どちらも私たちの心の内に同時存在しています。

「愛」は相手があって育むものですから時間がかかります。

一方「憎しみ」は一瞬の自我感情で起こりうるものですから瞬時にして破壊のエネルギーとなって影響を及ぼします。

「愛」が一転して「憎しみ」に豹変する場合もあるわけです。

しかし、愛が相手に受け入れられない時、その愛が憎しみに変わるといいますが、実はこれは「愛」ではなく身勝手で自己中心的な想いでしかない。

感情的になりやすい人と穏やかに対処できる人の違いはとなると、自分本位の傾向がどの程度強いのかだろうと思います。

押し付けの想いは真実の愛ではないし、自己都合による愛の押し付けは、拒絶と不信感を持たせ、双方の間に大きな壁をつくってしまいます。

争いや憎しみは個々の持つ愛のあり方や価値観の違いから発生するものです。

しかし、厳密にいえば愛に行き違いがあってはならない。

相手の想いを受け止められているのか、相手の心に寄り添えているのか。

本当の愛はこのような行き違いを超えたところに信愛として在るものだと思います。

人間は何故に争い憎しみ合うのか。

自分の想いを通したいというエゴの心がそうさせています。

幸せだ。不幸だ。といいます。

自分を通したいエゴの強い人は幸せの心に気づくことはきわめて難しい。

是非は別にして、「あるがままに愛しむ」「無条件に受け入れる」このことが愛の原点であると確信します。

「憎しみ」は「攻撃」の感情です。

自分に「愛」が注がれていないことに気付いた時に発生する感情として生まれるのが憎しみでしょう。

ですから、「憎しみ」は他者を破壊する感情であって、自らの存在を維持する為の他者攻撃ということができます。

憎しみが本能的感情であるのは明白です。

おわかりかと思いますが「憎しみ」は自己保存に原点があります。

憎しみは互いに憎しみを呼び連鎖します。

愛が憎しみを生ずるというのは執着心にほかならず、自己愛を本質とするものです。

人間の心のなかにある愛、そして憎しみというエゴ、それらは武器を持ってわたしたちに襲いかかってくるわけではない。

それなのに、私たちはそれらのものを制御できず、知らず知らずのうちにその虜となり、召使いとなってエゴの命ずるままに動かされていきます。

いったいなぜだろうか?

心に執着という重いものを持っていると軽やかで暖かい愛で接することができません。

惜しみない寛大さ、寛容さこそ愛の原点だと思います。
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才能と品性 2017/6/2(金)

「才能は静寂の中で養われ、品性は世の嵐の中でつくられる」とゲーテの作品のひとつにあります。

この言葉は私自身の自戒として大事にしているものです。

人それぞれには個性があるように、得手不得手もあるだろうし、持ち得る才能の種類も大きさも千差万別でしょう。

騒々しい環境のなかでは自分を見失う可能性があるくらいのささやかな自分の才能。

まして品性となるとまことに低劣となるおそれすら大いにあります。

バタバタして仕事をしているときに限って仕事が見えずに、仕事から離れた時に仕事のことが見えてくることがあります。

そういう時は決まって心静かなときです。

静寂の中でひらめくことがあるのはそういうことなんだと気づきます。

逆境のなかで経験することで初めて品性が養われるのは良しとして、人によっては逆にいじけたり他人を恨んだり自分を卑下したりと心が歪んでしまうこともある。

同じ環境にいても別々な生き方をするのが人間なのでしょう。

別々な生き方をする根っこにあるものは何かと考えると「想い・心の器」という言葉が浮かんできます。

想いというのは自分の人生観とでも言いましょうか。

心の器とは、物事に対するときの考え方や対処の仕方の違いだろうと思います。

仕事はただお金のためだけに働くのでは虚しくなりますし、不満もでてきます。

例えば、仕事に取り組む姿勢としては、まず心を磨くというか、ものの考え方を成長させるという大前提が必要なように思います。

そのような意味から、苦難がくればそれもよし、順調ならば更に良し、という心づもりを常に持ち、人一倍の働きを積み重ねてゆくことが大切ではないだろうか。

そして何年かして気が付いてみれば成長している自分に嬉しくなることもあります。

生きていく様々な局面で、一方は「これで十分だ」と考えるが、もう一方は「まだ足りないかもしれない」といつも前向きに未来を見据えて考える。

そうしたいわば紙一枚の取り組みの差が、大きな成果の違いと心の成長であり、品性という心の器の差を生むのだろうと思います。

正に、努力に勝る天才はいないという所以なのでしょう。


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不妊症について 2017/5/29(月)

子どもが欲しいけどできない。
これは当事者にとっては深刻な問題のようです。

そのことが原因で離婚されるケースもある一方で、深く幸せの意味を考えて絆を深めていく夫婦もいます。

医学的な解釈では受精可能な卵子・精子を排出することができない状態、もしくはそれらを受精させることができない状態のことをいいます。

私の院に来院された人たちのなかに、お医者さんから「不妊症です」といわれて子供を産むことができた人がいます。

その一方で、まったく異常がないといわれながら、子供を産めなかった人もいます。

子供を産めない理由、原因はいろいろあるでしょう。

単に肉体的なところに起因するケースもあれば、家庭環境に起因するケースもあり、夫婦の問題に起因するケースもあります。

当院の整体施術を受けることで長期間不妊治療していた人が妊娠した事例がいくつもあります。

また少し視点を変えてみますと、不妊症であることは、今世で経験しなければならない理由があるのかもしれません。

そういう人たちの中には、単に結婚したら子どもを産むものだから、あるいは親が早く孫の顔を見たいというからという理由で子どもを欲しがる人もいるでしょう。

また、ある女性たちは、単に自分が女性であることをもっと感じたいために子どもを産もうとします。

しかし、子どもがいようがいまいが女性性は本来自分のなかにあるはずです。

この時点では、まだ自分の女性性を完全に認識していないといいますか、女性性を真に理解して受け入れられていないわけです。

つまり、不妊の女性は、たとえ子どもがいなくてもありのままの自分を受け入れて幸せに人生を終えられるということを学ぶために不妊を選んだ可能性があります。

この選択は、自分がこの世に生まれてからのことではなく、生まれる前から、すなわち、あの世で暮らしている段階の方針として計画された人生だともいえます。

また、子どもが欲しいのに子どもを産むのが怖いために子どもを産めない女性たちもいます。

このように、不妊症は、子どもを持たないための無意識的な口実として潜在的に使われている可能性があるわけです。

しかし、それでも子どもを欲しい場合は、「子どもが欲しい」という気持ちを大切に持ち続けるべきでしょう。

何事においても望んでいることなのに結果を得られない人、自分を非生産的だと責めている気持ちがある人の場合も不妊症になることがあります。

心の面でマイナス思考は現象となって肉体にまで影響を及ぼす場合があります。

「親から子どもを産むことの辛い話を聞いたことはないだろうか?」

「子どもを産むと誰かが自分の元を離れていくと思っていないだろうか?」

「子どもを産むことで体系が崩れるのは嫌だと思っていないだろうか?」

「子どもを産んだら育児が大変だし自分にできるかしら?と考えていないだろうか」

こういう気持ちを持っている女性の場合、自分の願いと恐れのどちらかを選択する勇気と決断をしなければなりません。

あとは自分が決めたことの結果を受け止める覚悟を持つだけです。

これでも自分を卑下する気持ちがあるなら、自分の周りの人たちから聞いてみる事もいいでしょう。

彼らも自分と同じように考えているかどうかをです。

「後ろに未来はありません。
人生は前に進むことで進歩というのでしょう。」


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「備わった愛」


娘がママになってくれた家族の話し! 
2017/5/22(月)

もう
10年も前の話妻が他界して1年がたった頃、当時8歳の娘と3歳の息子がいた。

妻がいなくなったことをまだ理解できないでいる息子に対して、私はどう接してやればいいのか、父親としての不甲斐なさに悩まされていた。

実際私も、妻の面影を追う毎日であった。

寂しさが家中を包み込んでいるようだった。

そんな時、私は仕事の都合で家を空けることになり、実家の母にしばらくきてもらうことになった。

出張中、何度も自宅へ電話をかけ、子供たちの声を聞いた。

2人を安心させるつもりだったが、心安らぐのは私のほうだった気がする。

そんな矢先、息子の通っている幼稚園の運動会があった。

“ママとおどろう”だったか、そんなタイトルのプログラムがあり、園児と母親が手をつなぎ、輪になってお遊戯をするような内容だった。

こんなときにそんなプログラムを組むなんて・・・「まぁ、行くよ♪」、娘だった。

息子も笑顔で娘の手をとり、二人は楽しそうに走っていった。

一瞬、私は訳が分からずに呆然としていた。

隣に座っていた母がこう言った。

あなたがこの間、九州へ行っていた時に、正樹はいつものように泣いて、お姉ちゃんを困らせていたのね。

そうしたら、お姉ちゃんは正樹に、「ママはもういなくなっちゃったけど、お姉ちゃんがいるでしょ?」

「本当はパパだってとってもさみしいの」

「だけどパパは泣いたりしないでしょ?」

「それはね、パパが男の子だからなんだよ。まぁも男の子だよね。」

「だから、だいじょうぶだよね?」

「お姉ちゃんが、パパとまぁのママになるから。」そう言っていたのよ。

何ということだ。

娘が私の変わりにこの家を守ろうとしている。

場所もわきまえず、流れてくる涙を止めることが出来なかった。

10年たった今、無性にあの頃のことを思い出し、また涙が出てくる。

来年から上京する娘、おとうさんは君に何かしてあげられたかい?

君に今、どうしても伝えたいことがある。

支えてくれてありがとう。

君は最高のママだったよ。

私にとっても、正樹にとっても。ありがとう。


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教師の過労死。 2017/5/19(金)
つい先日30代の男性教師が「お話しを聞いて頂きたい。」と相談にみえられました。

担任の仕事以外にも部活の顧問に加えて若手同僚教師のまとめ役、毎日の事務的な整理、翌日の準備で毎日夜の10時過ぎまで学校に残って仕事しなければ追いつかないというのだ。

こういった話は以前にも何度か聞いたことがある。

「子供が産まれたばかりで家内に協力したいのですがほとんどできていない」。

「日曜日の休みしか家族に時間をとれなくて自分の時間なんて取れる状況ではない」

この学校は県内でも有名なほど教育熱心な方針や体制をとっているのですがその結果は教師たちに相当な負担を強いている。

民間企業ならブラック企業とレッテルを貼られそうなほどサービス残業が蔓延しています。

こういう問題は何も限られた学校だけということではなく、今や社会問題化してきていて、精神疾患に陥って体調を崩し休職や退職を余儀なくされている教師の方々とも向き合ってきました。

きょうは教育現場での問題についてふれてみたいと思い「神奈川新聞・5月14日」を転載させていただきましたので参考にしていただければと思います。

以下。


労働被災者”になる前に相談を-。
過労死で大切な人を失った家族らが25日、「神奈川過労死等を考える家族の会」を設立する。

長時間勤務など過重労働に起因して命を落とすケースが後を絶たない中、当事者や家族の苦しみを共有し悲劇を繰り返さない社会を目指す。

「突然命を奪われて立ちすくむ人たちの支えになりたい」。

過労死した夫の公務災害認定まで5年半を要した工藤祥子さん(50)は、自身の経験に重ねて支え合う大切さを呼び掛ける。

熱血教師だった。
工藤さんの夫・義男さんは2007年6月、修学旅行の引率から帰宅した直後に体調不良を訴え、くも膜下出血で10日後に死亡。

当時40歳、4月に赴任した横浜市立中学校で生徒指導専任と学年主任を兼務する激務を抱えていた。

地方公務員災害補償基金(地公災)が公務災害と認定したのは、死亡から5年半後。

祥子さんは08年に地公災県支部に申請したが、10年5月に「職務は通常の範囲内だった」などとされ不認定に。

同7月に同支部審査会に不服を申し立て、高度の精神的・肉体的負荷と死亡との因果関係が認められた。

「過労と激務を立証するため夫が死に至るまでの日々をたどり、生前を思い出しては泣いた。夫を止められなかった自分を責め、どうしようもなかった」と振り返る祥子さん。

公務災害認定のハードルの高さを目の当たりにし、同じ境遇の遺族らとさまざまな場で制度の改善を訴えてきた。

全国過労死を考える家族の会メンバーとして活動を続ける中で痛感したのは、県内の被害の深刻さだった。

神奈川過労死対策弁護団によると、県内で過重労働に起因した精神障害の労災請求件数は年間120~130件で、認定件数とともに全国の約1割を占める高水準で推移している。

一方、労災認定手続きの負担などを理由に泣き寝入りするケースも後を絶たないのが現状で、家族の会は突然の事態に備えるためのサポートにも取り組んでいる。

神奈川の家族の会は、首都圏では東京に次ぐ2カ所目で、全国14カ所目。

25日に設立総会と「結成記念の集い」を横浜市中区で開き、工藤さんが代表に就く予定だ。

今後は交流会や勉強会などで公的支援につなげるほか、シンポジウム開催などにも取り組んでいく。

問い合わせは、神奈川総合法律事務所電話045(222)4401。

◆教員の過労死認定遺族には険しい壁。

小さな2人の娘を抱え、絶望に暮れた。

夫は、40歳の若さで亡くなった。

工藤義男さんは横浜市立あざみ野中の教員だった。

2007年6月にくも膜下出血で死亡した。

過労が原因だと、公務災害(公務員の労働災害)の申請を決めた。
その作業は傷口をえぐるような辛苦だった。

妻の祥子さんが振り返る。
「過労と激務を立証するため、夫が死に至るまでの日々をたどっていく。

生前を思い出しては泣き、夫を止められなかった自分を責める。
娘たちのつらさまで受け止める余裕がなく、どうしようもなかった」。

工藤さんは結局、5年半の歳月を経て過労死と認められた。

その間に家族関係が悪化し、両親に同居を頼んだ。

それほどまでして、やっと認定にこぎ着けた。

教員の場合、労災は労働基準監督署ではなく、地方公務員災害補償基金(地公災)が審査する。

被災後の給与や年金、治療費などを補償する機関であるはずの地公災はその実、被災者や遺族にとって高く険しい壁となって存在する。

それは、数字からも明らかだ。

05~09年度の5年間で比較すると、脳・心疾患の労災認定率は民間の44・5%に対し、地公災は20・3%と半分以下。

死亡事案で比べても、46・9%と25・5%と大幅な開きがある。

教職員に限ると、この5年で「過労死」と認められた件数は、わずか14件しかない。

過労死弁護団全国連絡会議幹事長を務める川人博弁護士は、「この数字は氷山の一角にすぎない」と指摘する。

「教師の場合は労災申請に学校長、教育委員会の承認が必要になるが、監督責任を問われるため協力が得られにくい。

実際に校長が申請書類をずっと隠していたケースもあった。

心理的負担に耐えられず、泣き寝入りする遺族も多い」。

加えて被災者や遺族を苦しめるのが、審議の遅さだ。

06年に都内の小学校女性教諭が自殺したケースでは、2年近く地公災に何の動きもなかったため、遺族は違法性を確認する「不作為の違法確認請求訴訟」を東京地裁に起こした。

その後審理は進んだが、遺族代理人の平本紋子弁護士は「ここまでしないと地公災は動かない。

民間の労災審理はスピードアップが進む中、遺族の感情を考えない、あり得ない対応だ」と批判する。

厚生労働省が過労の認定基準を見直した01年以降、民間企業での認定件数は跳ね上がった。

一方、地公災はほぼ横ばいが続く。

民間では広がったセーフティネットから、地方公務員は抜け落ちている。

川人弁護士は糾弾する。
「数字を比較すれば、地公災の対応は意図的に労災認定を抑えていると捉えられても仕方がない。

申請手続きから審理の方法まで、地公災はあり方を根本から見直す必要がある」
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欲望 2017/5/15(月)
警察官、教師、医師、僧侶、宗教家などによる犯罪が社会のメディアで取り上げられる機会が増えてきました。

社会では「警察官が、教師が、医師が、僧侶が、教祖が、公人なのに」というような厳しい批判が聞こえてきます。

何故このような犯罪がおこるのだろうか。

社会的にも地位も知識も資格もある人たちです。

だが、よくよく考えてみますと犯罪は資格の有無で起こるのではなく、その人間の心の発動によって起こったことでしょう。

その時の精神状態がどうであったかということを考えて出る答えは「欲望・自己中心・身勝手」ということが背景にあるとわかります。

きょうは「欲望」という人間の根源的な心の領域に触れてみたいと思います。

まず「欲望」は「本能」という意識体に存在する働きでありますが、本能は人間だけではなく動物が生存して子孫を残していくために与えられた意識活動であり根源的な行動だといえます。

この点では人間もその他の動物も共通するところですが、人間はその本能に人間独自の意識が働きます。

それが「欲望」です。

理性の働かない欲望は野生動物以下の行動をします。

最悪は殺人まで犯すわけです。

理性は子供時代の学校教育や家庭内の躾によって身についていきます。

しかし、調和された家庭環境が欠けていることによって理性が育たぬままに社会に出ていくとどうなるかというと、先の事件のようにいざというときに欲望や自己中心、身勝手という心にブレーキがかからずに犯罪を犯すことになるわけです。

こうしてみると本能の領域にある欲望という意識をコントロールできるのは理性だということがわかりますね。

突発的な出来事や思い通りにいかない出来事の際に非常に感情的になりやすい人間はこの「理性」が育っていないともいえます。

人から指導を受けて自分を変えていく場合もありますが、根本的には自分の長所短所を知って自らの心がけをもって努力する姿勢がなければ「理性」は育たないでしょう。

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グレてた息子の親孝行。 2017/5/10(水)

おれは中学・高校と結構ぐれていた。

そんなおれもついに社会人!そして初めて迎えたお母さんの誕生日。

「いつもありがとう」ってプレゼントを渡したかったんだけど照れくさいし、もし選んだプレゼントが気に入ってもらえないと怖かったからデパートへ連れて行った。

「何でもいいから好きなの買えよ」と言うと、「高いエプロンだけどいいの?」とおずおずと見せに来て、値札見たらたった
3000円だったんだ。

「こんな安物かよ」と後ろ向いて、泣きそうな顔を見られないようにレジに走ったおれ・・・・。

ブランドでもバックでも何でもあるだろ、財布の中に給料全部入れてきたんだから・・・。

涙が出たけど、トイレで急いで顔洗って、知らぬ顔で袋をお母さんに渡した。

しかもお母さんがうれしそうにそれを抱きしめたのを見て、また泣きそうになったんだ。

今でも実家帰るたびにそのエプロンつけてご飯作ってくれて、ありがとうな。

ほんと美味いよ。

いつも素直になれなくてごめんね。

マザコンとよばれてもいい!お母さん大好きだ。

本当にいつもありがとう!

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とある家族の話し 2017/5/5(金)

腹違いの兄貴。

俺小学5年、兄貴大学生の時に子連れ同士の再婚。

兄貴とは一回り近く年が離れていたせいか、何だか打ち解けられなかった。

それから6年たって俺が大学入試の時、入学金の事親に言えないでいたら、兄貴が知らない内に払っていた。

俺「気を遣わないでよ。いざとなれば働けば…」

兄貴、「馬鹿野郎。俺はお前の兄ちゃんだ。」

後でちょっと泣いた。

兄貴の娘が大怪我した時、俺は限界まで輸血した。

兄貴、「もういい止めろ。死んでしまう」

俺、「うるさい。俺は○子の叔父さんだ」

義姉共々泣かした。

お返しだ。ザマミロ。

姪っ子の結婚式の時、「私にはお父さんとお母さんと、叔父さんの血が流れています」って言われて図らずも号泣。

兄貴夫婦以上に号泣。
大恥かいた。

姪っ子綺麗だったなあ…。
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夫婦調和の原点と心理的根拠 2017/4/18(火)

結婚を出発点として、人間は夫婦生活を理想的なものとするために何が大切かとなると、お互いが相手の心にどれだけ寄り添うように協力できているかだと思います。

夫婦は協力関係にあるわけですから、男女の役割が違うからとはいっても、男性が主で女性が従だという考え方は偏っています。

役割の違いはその違いだけであって、どちらが偉くてどちらが劣っているというものではないでしょう。

往々にして男性中心の封建主義的な考え方は、儒教の教えと日本の武士道が結びついてつくられた道徳からきている色合いが濃い。

儒教や武士道の教えにもいいところはあるのですが改めなくてはならないところもあるように思います。

但し、男女の役割の違いを差別だと考えてしまって、その役割まで否定してなくそうとすることは自然の法則を人間の力で変えようとするもので、これまた正しいものとはいえないのではないか。

役割は違っていても人間は本来平等です。

自然を破壊すると公害が発生するように、男女の役割を無視すると家庭破壊の道を進むことになります。

夫婦愛を完全なものにしてゆくには知恵と工夫が必要です。

そして知るべきことは知っていなくてはと思います。

「神は愛なり」とキリストがいいました。

ということは、「愛は神なり」ということになります。

人類愛も動物植物相愛も、親子愛、夫婦愛、兄弟姉妹愛、親戚間の愛、職場への愛も、すべてが神の愛の実現といえるでしょう。

これらのすべては愛であるが、性生活を伴う夫婦愛だけが悪だということはない。

性生活がなかったら私たちの肉体が誕生することはできません。

肉体が誕生できなければ魂が宿ることができません。

魂が宿ることができなければこの世での心の学び(修行)ができない。

そうすれば人類が破滅します。

人類が死滅することは神の心ではないはずです。

夫婦愛を完成してゆくのに、営みに対して後ろめたい気持ち、罪悪感をもつ必要はないでしょう。

愛の実現方法については夫婦でよく理解しあえばいいこと。

そのためにも先ずはお互いが心身ともに健康でありたい。

身体の健康は努力によってある程度何とかなるものですが、問題は心の健康です。

これが難儀です。

心の健康とは偏らずにバランスのとれた状態のこと。

日頃から物に執着し、足ることを覚えず不満をいう暮らしは心が健康だとはいわない。

何か自分の思い通りに行かないことがあるとパートナーにキツイ言い方をしてしまう。

そういう相手の言動に気持ちが萎えてしまって営みをする気持ちになどなれないでいると、またチクリチクリと嫌味を言われる夫。

今流のいいかたをするなら「デリカシーが無い」ということだろうか。

病気や健康について、あるいは精神疾患だけではなく、いろんなご相談をいただくのですが、夫婦問題についてのご相談も時々あります。

夫婦がいい関係で生活するためにはいくつかの条件がありますから述べてみましょう。

1・愛のない営みはよろしくない。
営みはあくまでも愛の延長上にあって然るべきであって、さらに愛を確認するためのふれあいであるということ。

どちらか一方だけの欲望のはけ口になってはいけない。

2・すべてに対して足るを知ること。
これがすべてに対して感謝の心を持てる要になるからです。

常に不平不満・嫉妬・愚痴・怒りをもって日々の生活をしている夫婦もいましたが、やはりうまくいっていないし離婚になってもおかしくない状況である。

その理由は、求めることが多いから。
この一点です。

いくら話してもそのことに気づけない。

それは自分の心が欲求だけで満ちていて相手の気持ちなど推しはかるという心づかいが欠けているからです。

「つぶやく者の恋は成就しない」という諺があるように、常に不平不満の気持ちで幸せ探しをしてもその可能性は限りなくゼロに近い。

十のうち九つ幸せな人が、一つだけ不幸なことがあったとします。

その一つのことを「自分はなんて不幸なんだ」とつぶやいていると間違いなくこの人は不幸な人生になっていく。

その反対に、十の内に九つが不幸で一つしか幸福なことがなかったという人がその幸福を「私は幸せだ・何て私は幸せなんだろう」といっているとそのうちに十とも全部が幸せになってくる。

足るだけの生活をしていながら、それでもまだ足りないと上ばかり見て自分の欲求をドンドン相手に押しつけている自分に気づけない人がいるのです。

自分を省みることのできない女房も夫も自分を知ることが先です。

人間関係も夫婦関係もお互いの良いところをみてやる心が大切ですね。

そして、やたら「プライドが高くて困ります」という相談もありました。

自尊心というものは本来、品格ある人間性を保つ心のことをいいます。

他人から注意をされたり、指摘をされた程度で「プライドが傷ついた」といって怒りだすというのは正しい自尊心(プライド)ではなく自我心が強いだけの心ということになります。

相手から尊敬されるためには、先ず自分自身が偏りのない調和された自尊心を自覚することだと思います。

自尊心を傷つけられといって、些細な事に立腹するのは自尊心ではありません。

ただの未熟な感情から発した怒りに過ぎません。

一方で自分を卑下することもいけません。

これも過ぎると相手の愛を受け入れられなくなります。

3・愛する人の自尊心を傷つけてはならない。
特に夜に寝室に入ってからかねての不平や愚痴をいってはならない。

営みは愛を表現する至極の手段ですから細心のいたわりをもって大胆におこなうべし。

4・愛は奪うものではなく、与えるもの。
これは営み然り、日頃のパートナーに対する思いやりも然りです。

5・夫が夜の生活をしてくれないと不満をいうケースがあります。
理由はいろいろあるかとは思いますが、そのなかの一つに、「日頃からなじられ夜のことも不満を言われることが多く気持ちが向かない」というご主人がいました。

女が大胆に要求してくると男は逆に気が引いてしまうところがあります。

恥じらいといいましょうか、ある程度の羞恥心をもっていたほうが夫の愛を誘うことになるでしょう。

6・妻に対して過度の性的行為を求めることはよくない。
何事も節度が必要です。

健康のために食事もコントロールが必要なように夜の営みもそれが必要でしょう。

7・夫婦生活が罪であるように教えられたクリスチャンが、夫から愛されたときに一切の声を押し殺して唖になっているということがありましたが、これは間違っています。

男性は自分の与える行為がどれだけ妻を満足させられたか、その妻の喜びがかえってきたときに初めて満足するものです。

ですから夫の行為に対して応えることは罪ではなく、愛される喜びであると理解しなくてはならない。

今回の投稿内容は細かいことまで立ち入って述べさせていただきましが、男と女が愛し合うことは自然界の法則に沿った生命活動のなかの営みとして理解すべきでしょう。

それだけにお互いを尊重する心を忘れずにいたいものです。

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sen「縁の活かし方」 207/04/11(火)

世界の人口を調べてみましたら(米国勢調査局と国連データー推計)
739千万人以上とありました。

人生
80年として私たちが初めて会う人が一日何人いるのか、一年に何人の人と巡り会うのでしょう。

例えば一日
5人の人と初めて会うとして世界の人口すべての人と会うには、約400万年ほどかかる計算になります。

実際に巡り合う人は限られた人数でしかないと思います。男女の比率が五分五分だとすれば半数の
369000万人が男であり女でありということになります。

国際結婚ということもありますから人はいつどこで巡り合わせがあるか未知数です。

そのなかで巡り合った二人が結婚すればこれは大変な縁だといわざるを得ません。

どんな人の人生もさまざまな縁の触れ合いです。

人間社会は人間と人間のふれあい、関わり合いという縁のなかでお互いが生かされるような仕組みになっているわけですね。

「人」と「間」が繋がって「人間」となるように、真に言い得て妙なる言葉だと感心します。

ただ、世の中善もあれば悪もあるように、縁にも喜ばしい縁もありますが、反対にあまり好ましくない縁というものもあります。

それでもその縁に対して素直な心で対処することができるならば一見悪縁と思われるようなことでも良縁に変わっていくものです。

そういう意味においてはどのような時も縁に流されてしまうのではなく、穏やかに冷静に相手を尊重して事に対処する心をもっていたいものですね。

「縁」というと何かしら特別なものと思われがちですが決してそうではなく、毎日の生活のすべてが縁だということを認識していただければと思います。

今食事をしていることも、誰かと話していることも、用事があって歩いていることも、目的地に向かって車に乗っていることも、職場で働いていることも、こうした生活一つ一つの全てが「縁」であり、その縁に対する向き合い方であり、それによる結果がうまれてくるということでしょう。

こうしてみますと、結果は必然だといえます。この結果が次の「縁」を生み出します。必然の縁に如何に対応するかによって結果が変わり、次の縁がまた巡り合わせてきます。

「縁」に対する選択と対処の繰り返しが新たな「縁」を呼びます。

縁に対してどう対処するのか、人の行動のすべては、自分が意識的にしても、あるいは無意識的にしても、「心」によるものであることは間違いありません。

ですから、どんな縁でもそれを好転させるかどうかはその人の心に掛かっていると思うのです。

ということは、人生を決めるのは縁ではなく、その縁をどう活かすかという「心」だということになりますね。

つまり「こころ」こそ「縁」の支配者ではないだろうか。

ですから日頃から心を育てることに対して意識を向けておくことも大切かと思います。

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「縁」 2017/4/01(日)

何かを判断して決めなければならない局面でなかなか決められない、自分では判断がつかないということがあります。

ただ、そういうことがいつでもそうだとなると少し考えなければならないと思います。

例えば「優柔不断で!」という問題や、その人の「性格的な特性」ということもあるでしょう。

高校を卒業して進学や就職する青年、大学を卒業して進学や就職する青年たちの場合、性格や特性という前に「選択」「決める」ということに慣れていないということもあるでしょう。

判断するだけの経験も少ないだろうし、決めるとなると深刻に悩んだりすることもあるでしょう。

そうして社会に出れば様々な経験をします。

この経験がその人の特性や価値観などによって「判断」、「決める」ということに影響してきます。

人によっては「縁」で選ぶ場合もあります。

「初任給」「待遇」「社員数」「福利厚生」といった、数字やデータで表すことのできる指標で頭がいっぱいになっているなかで選択する、決めるということもあります。

言うまでもなく、就職先を決めるときに、それらの数字やデータは大切です。

でも、そういう数値で表せるような「客観的な情報」というのは、最終的に何かを「選ぶ」ときには決め手にならないことが多々ある。

私も若い時に給料の高低で職を選んだ経験があります。

しかし、その仕事は長くは続けられませんでした。

人生を左右するような選択の際には、損得勘定だけではなく、「自分の夢・希望」そして「縁で選ぶ」という感覚を身につけることをお勧めしたい。

今だから言えるのでしょうが、本当に自分がやりたいことというのは月日年月経っても「心から湧き出る・消えない」ということを実感します。

それでは縁とは何か。

それはお金や物のように計量することができないもの。

且つ、非常に感覚的かつ個人的な尺度といえるかもしれません。

一年間働いて年収がいくらだとか、客観的に比較できるものではなく、自分自身が「なんとなくこっちがいいなあ」「これがやりたい」と感じる直観的なところから始まる、それが「縁」です。

物事が成されるときはいつも元なる原因があって、それに関わる働きがあって初めて一つの事が成されていきます。

例えば、マッチ棒に火が付くためには、擦るための成分が含まれたマッチ箱が必要です。

この二つが擦るという働きを縁として火が燃えるという結果がうまれます。

このような働きこそが関わりであり、社会の中の人間同士の「縁」でしょう。

自分だけの価値観ではなく、社会の関わりのなかでその「縁」を大切にしていく生き方がどれだけ自分の人生を好転させるだろうか。

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挑戦 2017/3/09 (木)

限りなく成長していく人と、何とか一定のところまではいくがそこから更に成長できないという人では何が違うのかということを考えてみることがあります。

分かることは、「どうしてこうなのだろう」「何かがまだ足りない」「他に方法があるはずだ」「まだ道があるはずだ」といった探究心や工夫の気持ちが常にあるかないかだけの違いだと思います。

こういった気持ちがあるかないかでは、同じように指導いただいていても成長の度合いが違ってきます。

しかし、それ以前にもっと大切なことは、頭でばかり考えていて行動しなければ進歩につながってこないということ。

不安だ、心配だ、失敗したらどうしよう、と後退する考えに頭がいっぱいになってしまっている人がいます。

そういうときは、チャレンジせずに失敗を恐れるよりも、自分が何もしないことを恐れること。と言いたい。

こうしてみると、何事もやはり自分の気持ちというか、モチベーションといいましょうか、取り組むときの心構えがいかに大切であるかというように思うのです。

話は変わりますが、山にいってみると大木が強風に耐えてたくましく生きている姿が目に入ってきます。

なぜあの大木は倒れないのか、枝葉よりも大きな根っこが支えているからです。

しかし根っこは見えません。

見えませんけど見える幹や枝の部分をしっかりと支えています。

人間も木と同じで、それを支えるのは見えない心だと思います。

体も人生も、それを支えるのは心からだと思うのです。

心ってすごいですね。

表に出なくてもしっかり役目を果たしているもの。

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努力は何かにつながる。 2017/2/24(金)

この世の中、自分が努力したという割には報われないと思うことがたくさんあるだろうと思います。

しかし、その時はすぐに結果が出なくても、長い人生の中で必ず「何か」につながります。

それは、自分の心が強くなれたり、

いつしか成長できたなと思えたり、

気づいたら周りの人たちから信頼されるようになったり、

新たな人生の展開があったりと様々です。

30代で会社員を退職して自営業を始め、そこそこ生活はできていましたが、どうしてもその当時の自営業に満足できず健康に関する医学書を独学でコツコツと学んでいました。

そうしているうちに整体という技術に関する専門知識を得たいという思いが湧き出して消えることなく
3年が経ち、決心して東京の整体スクールに入学して学ぶことにしたのです。

かなりの勇気と決心が要りました。

スクールでの勉強は基礎的なことがほとんどで実際に患者様にその技術で対応するとなると結果的にはあまり期待できない施術内容です。

実はスクールに入校するまえからあちこちの整骨院、整体、カイロプラクティック、鍼灸、マッサージなどで自分の体で治療してもらうことも学びだと思って渡り歩いていました。

私にとってはそれが何よりの生きた技術の習得になったと思っています。

先生方によって得手不得手もあります。

対応もさまざま。
そこには個性や人間性が見えてきます。

施術後の結果も千差万別。

そういったことの一つ一つが最高の教材でした。

技術を実践するために人の体を借りて無料で施術したものです。

これらの体験はすべて在学中のことです。

やがてお客様が「お金を払うからやってくれ!」というようになりました。

嬉しいと思いました。

気が付けば医療現場で治癒できないような症状も改善できるようになっていて患者様の数も相当な数になっていました。

コツコツと繰り返した努力は特別なものではなく、本当に地味な作業だったと思っています。

ただ、そういう中において「どうしたらこの部分の症状が改善できるのか」ということについては常に試行錯誤しながらも探求心をもって臨んでいました。

やってみなくては結果がでるのか出ないのかわかりません。

考えながら同じことを試してみる毎日、それで結果が出なければ別な視点から考えて別な技術で試してみる。

こういった姿勢が現在の私の技術や接客姿勢をつくりあげたのでしょう。

私の様な治療家としての職業は探求心がなかったら成長はなく、コツコツと弛まず、諦めず、努力を重ねる以外にない。

そこには必ず道が拓ける。

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幼子の愛 2017/2/10(金)
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ある家族の出来事。

6歳の娘がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて窓際に置いておいたから、早速何が欲しいのかなぁと夫とキティちゃんの便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、こう書いてあった。

「サンタさんへ おとうさんのガンがなおるくすりをください! おねがいします」

夫と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって少しメソメソしちゃったよ。

昨日の夜、娘が眠ったあと、夫は娘が好きなプリキュアのキャラクター人形と「ガンがなおるおくすり」と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておいた。

朝、娘が起きるとプリキュアの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで「ギャーっ!」って嬉しい叫びを上げていた。

早速朝食を食べる夫の元にドタバタと行って「ねえ! サンタさんからお父さんのガンが治る薬貰ったの! 早く飲んでみて!」っていって、夫に薬を飲ませた。

夫が「お! 体の調子が、だんだんと良くなってきたみたいだ」と言うと娘が、「ああ! 良かった~。これでお父さんとまた、山にハイキングに行ったり、動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね~」

……っていうと夫がだんだんと顔を悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めた。

私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように鍋の味噌汁をオタマで掬って無理やり飲み込んで態勢を整えた。

夫は娘には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしてた。

その後、娘が近所の子に家にプリキュアの人形を持って遊びに行った後、夫が「来年はお前がサンタさんだな……。しっかり頼むぞ」と言ったので、つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けた。

お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざった。

その後、この親子はどうなったのか気になります。

ガンを克服して健康になっていてほしいですね。

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母の愛
 2017/2/7(火)
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さんは娘が産まれるまで夫の暴力に耐えて苦しんでいた。

そんな家庭環境のなかではあったが、産まれたばかりの娘を抱いて、
この上ない喜びで泣きに泣いたのでした。

娘が
1歳の誕生日のときに夫は借金を抱えて自殺で亡くなった。

幼い子を抱えて夫の残した借金を返すために死に物狂いで働いた。

昼はパートで夜は居酒屋での毎日、寝る間も惜しんで働いた。

保育園の遠足のとき、おやつは雑穀のおはぎ。

小学校の時は給食費を払えない月もたびたびあった。

修学旅行のときのおみやげはご当地のキーホルダー一個。

それでも嬉しくてしかたがなかった。

中学の時の制服は親戚のおさがり。

高校のときのお弁当はいつもご飯に梅干しと海苔だった。

娘が無理を承知で大学へ行きたいと頼んだ時、
お母さんは何も反論することなく理解をしてくれた。

お母さんはごみ処理場にいって廃棄処分の参考書をもらいうけてきたという。

お金がかかるから私立は受けることができない。

国立専願受験で頑張った。

娘はセンター試験の前日に生まれて初めてお寿司を食べさせてもらった。

結果、センター試験に失敗したけど、お母さんは諦めないようにと励ました。

相当なプレッシャーと前期に落ちて責任を感じたのだろう、娘は自殺をしかけた。

母は娘に謝り続けた。

娘もまた母に謝り続けた。

ごめんね。ごめんね・・・・。

そして娘は気持ちを切り替えて後、その後も頑張って勉強して、なんとか後期に合格することが出来た。

母は、「おめでとう。おめでとう。」と泣き続けた。

「ありがとう。ありがとう。」

母娘は抱き合って泣いた。

しかし、運命のいたずらにしては状況が悪すぎる。

入学の日に母は倒れて病院に運ばれた。

医者は、「癌が全身に転移していてこれから一週間が峠だと思います」といった。

娘はあまりのショックに只々泣き崩れるしかなかった。

母は言った。
「この身体の傷やガンの一つ一つがあなたを育て上げた立派な勲章なのよ」と微笑みながら言った。

この母の何と心優しくも強いことか。

真の強さとはこのような心をいうのだろう。

まことに潔いとしか言えない。

母は最後まで泣くことも、苦しむこともなく静かにこの世を去った。

娘は現在、医者になるために毎日毎日勉強に励んでいる。

「母の命を奪った癌患者のために手助けしたい」という熱い志が娘の心を掻き立てて支えている。

娘は心から思った。
『私が生まれ育った環境は決して恵まれたものではなかったけれど、あなたの娘として生まれ、育てられて本当によかった』と。

ありがとうお母さん。ありがとう。

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いつの世も愛を言葉にし、語るのだが、語れば語るほど愛が希薄に思えてならない。

人の心は渇いていることが多いもの。

要求する愛もあろうが、与える愛ほど崇高な光はない。

愛即ち行

行即ち光り


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あまりにも多い「医者から薬をもらう習慣」
2017/2/1(木)

夜間外来に連れて行った幼い子供の診断をした先生が「大丈夫、39度に熱があがったらまた連れてきてください」とお母さんにいって何のお薬も出さずにそのまま返したといいます。

いまの常識では風邪薬を出す、抗生物質をだすということが当たり前のようになっています。

しかしほんとうに必要なお薬なのだろうか?

ある医師は、子供が風邪で熱を出したからといって連れてきたお母さんに「こういうふうにして体を冷やしてあげなさい。三日たって熱が下がらなかったらまた連れてきなさい」といって解熱材も出さずに返したといいます。

実際はこういう医師は非常に少ない。

日本の医療では保険証一枚あれば全国どこに行っても個人病院から大学病院まで自由に医療が受けられ、薬も有り余るほどもらえるようなフリーアクセス制度になっています。

欧米では先ず家庭医がいます。

日本でいうところの統合医療の教育を受けた医師のことです。

内科、外科、小児科、出産にも応じられるようにトレーニングを積んだ家庭医に最初に診てもらって、そのうえで必要があれば専門医のところに紹介されるという仕組みになっているようです。

オランダなどでは、家庭医と専門医の区分けがはっきりしていて薬も極力使用しない方針になっているといいます。

日本の医療現場はまったく逆の対応です。

たとえば抗生物質をみてもそうですが、風邪のウイルスにはほとんど無意味なことなのに処方されています。

抗生物質は手術の直前に使用するだけで用が足りるのに、術後にも感染予防という名目で何日も点滴で使われ続けています。

このように過剰な薬の投与、処方箋があたりまえのごとく使われているのが日本の医療だということを知っておいてもいいのではないでしょうか。

私の院においでになる患者さんのなかにも薬を6種類から9種類も毎日服用している人たちがいます。

明らかに不必要な薬と思われるのにです。

随分と薬を減薬させましたし、断薬もさせてきました。

結果はとなると以前にも増してすこぶる健康体になっていくのはいうまでもありません。

断薬によって命拾いした人もいます。

減薬、断薬を勧めるだけではなく、薬の弊害も具体的に説明して理解を深めていただくようにしています。

しかし、薬をもらわないと納得しない患者さんがいるのも大きな問題だと考えています。

これは長年の医療の在り方によって患者さんが医師の指導を受けてきた影響が大きいところは否定できません。

なぜなら、今の医療でも多量投与、多種投与が常態化しているからです。

「この薬を飲まないと治らないよ」といって処方されたお薬の種類が、眠剤と抗不安薬、抗うつ剤が二種類、頓服の安定剤の5種類です。

カウンセリンによって気づいたことですが、明らかに副作用によって自分の意識がハッキリせず、混濁した状態でモウロウとしているのがわかります。

治るどころか、食欲がなく顔色が悪く、、気力が萎えて、昼夜が逆転し、人にも会えなくなり、幻覚を見るようになり、どんどん廃人に近づいていきます。

こういう患者さんをたくさんみてきました。

薬の服用は少ないにこしたことはありませんね。

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先ずは一歩 2017/1/25(水)

目の前の問題をどうしようかと迷ったとき、冷静に考えることはもちろん一番大事なことです。

ただ、十分に考えたら先ずは行動してみる事。

頭でっかちになって理屈ばかりいっていても事態は進展しません。

行動するということが知恵を働かせてくれます。

その知恵は行動する前の考えとは異なるもので、行動したから心が動いた創意工夫によるものです。

あーでもない、こうーでもないと頭や口だけ動かしても目の前の問題解決になろうはずがありませんし、知恵がうまれてくるはずがない。

迷っている時に人から言われた何気ない一言で背中を押してもらい、気持ちの切り替えができて前に進むことができるときがあります。

言葉というものは、人間の心を動かす力があります。

その力は人の心の力を削ぐこともあります。

励まされるのも言葉。

気力を削がれるのも言葉。

あとは自分の心の持ち方の問題だけ。

具体的に行動してみると具体的な結果がついてきます。

恐れることはない。

答えは行動したそこにあります。

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夫婦の姿 2017/1/17(水)

例え経済的に恵まれていても、マイホームのある若い夫婦であっても、お互いが疑問や不信感をもって生活していたら幸せなはずはない。

ほんとうに些細な事が大きな誤解を招いたり、不信感まで発展したりすることもあります。

お互いの真意が伝わっていないのでしょうか、かけ違いのボタンのようにちょっとズレているだけ部分を掛けなおせば楽にスマートに着られる洋服みたいなことがあります。

相手に対して望むことは実は相手も望んでいることだったということを感じたことはないだろうか。

分かっているはずなのに相手の気持ちを受けとめてやるより先に、自分の思いを押し通してしまう。

これでは長い人生を共に暮らすことに疲れてしまいかねない。

相手の至らないところや失態を責めてしまうケースはよくあるのだが、自分の我を通していることに気づけないまま「愛しているから」といって自分を正当化してしまう。

こういう姿は真の夫婦愛とは言いがたい。

本当の愛を求めるなら、まずは自分自身が本当の愛をもって接することが先だと思うのです。

本当の愛とはとなると、相手に自分を偽らずに語り接すること。

不必要な遠慮をしたり、自分を取り繕うこともしてはならない。

ありのままの自分を受け入れてもらうことが大事ですから、不安感や不要な恐怖感は抱えないことです。

お互いの良いところばかりを探すというのも無理があります。

そういう意味では相手の短所もよく理解して目を背けずに語り合う姿勢こそが真実の愛を育むのだと思うのです。

誰もそうですが、いつも自分が正しいわけじゃなく、妻のいうことだけ、夫のいうことだけが正しいということはありません。

完璧な人なんていません。

至らない点や足りない部分は補い合って、ともに同じ方向を見て歩み、学び、成長していくことが大切ではないだろうか。

夫婦が二人で目的に向かって生きることで信頼関係が生まれてきます。

己の欲せざる所は人に施す勿れ
(孔子・中国の思想家)
己の欲せざる所は人に施す勿れとは、自分がして欲しくないと思うことは、他人にとっても同じなのだから、他人にすべきではないということ。

己の欲するところを人に施せ(新約聖書)
自分がして欲しいことは他人にもしてあげなさい。

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一年の計は元旦にあり 2017/1/5
(木)
の故事を知っている人は多いと思います。

あえて説明するまでもないでしょうが、物事を始めるにあたっては、最初にきちんとした計画を立てるのが大切だということを意味した言葉だと思います。

私は観身堂という院名で整体の仕事を
始めて今年は26年目に入りました。

社会をみますと必ずしも明るいニュースだけではなく、暗いニュースや経済事情も不安定なニュースが多々あります。

そういったなかにあってもお陰様で今日までたくさんの来院者からご支持をいただき、ここまでやってくることができました。

これはひとえに皆様のご厚情によるものと心から感謝して励む決意を新たにするものです。

本年もどうぞよろしくご指導、ご鞭撻のほどお願い申し上げます。

さて、私は年もだいぶ重ねてはおりますが未だに夢があります。
そして希望をもっています。
そんなわけで、年頭にあたって「目標・目的」とは何かと考えてみました。

目標、目的
よく聞く言葉ですが、目標というのは、目的を達成するための当面の段階、つまりステップのように思います。

そういう意味では目標は目的を成し遂げるための一つの道筋といえるかもしれません。

目的があるから当面の目標が存在すると思うのです。

そうすると、目標の先にあるのが目的といえないだろうか?

人生を幸せにとか、豊かに、というように目的が概念的、抽象的なものであっても、その目的をある程度達成するためには、当面の具体的な目標がなくてはなりません。

例えば、どういう方法で、いつまでにここまでクリア達成するかというようにです。

目的というものは抽象的な要素があるものですが大きなテーマを含んでいるものです。

ですから目的を課題にするとその分クリアすべき目標も増え、目的を叶えるための消化作業がいくつも必要となってきます。

もう少し目的と目標について述べてみましょう。

例えば、陸上のハードル競技選手の場合。

目的はオリンピックで金メダルの獲得で世界一になることだとしましょう。

そのためには、競技中に目の前のハードルを、速さと一定の高さを超えてクリアするという目標があります。

この目標を超えずして世界一の座は達成できません。

このように目的はまだ見えませんが、目標はしっかりと見えているわけです。

一つ一つのハードルを越えた時に自分の目的に向かった道筋が間違っていないことが認識できるわけですね。

目的に到達するまでには、みな一様ではなく、個人差があります。

それぞれに能力の差があります。

そして得手不得手があります。

その個人差によってクリアしなければならい課題の大きさや数が違います。

大切なことは、ウサギと亀ではないが、怠ることなく、ゆっくりと、しっかりと歩を進めること。

目標は最終のものにして、目標はたくさんの手段でもあり、方法だと思います。

目標を達成するための手段や方法がいくつもあるとするならば、これをやってみたけどどうしてもこれでは先に進めないとなったら別な方法、手段を選ぶことがあっていいでしょう。

一つの方法を試してみて結果的に成果が無くても目的を諦めたわけではないということですね。

自分がクリアできる目標を立てて消化していき目的に近づくことが大事なところですね。

千里の道も一歩からといいますが、そうは言っても、人間は弱いもの、一人だとくじけることだってあります。

何事もそうですが、途中にいるから中ぶらりんなのであって、一度、失敗して底まで落ちて地にしっかりと足が着けば今度こそ本当に覚悟も決まるし、心から落ち着くものです。

だから落ちてみるのも悪くはありません。

落ちることで見えてくるものがありますから。

失敗は必要な過程です。

失敗の数だけ成功に近づきます。
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『山川草木悉有仏性』

2016/12/28(水)
私の居住地は岩手山麓で比較的標高の高いところにあり、平地に比べると天候も変化しやすい。

自然界には常に風が吹いていて無風ということはありません。

人生にもまた風が渦巻いています。

利益が出たとき、損をしたとき、人前で褒められたとき、けなされたとき、厳しい環境におかれたとき、恥をかいたとき、有頂天になったとき、思わぬ失敗をしたとき。

こういった様々な苦や楽があったときなど、まさに追い風もあれば、向かい風もあるでしょう。

今時期の空気は冷たく澄んでいます。

晴れた時の夜空をみれば、満天の星と光々と輝く月があります。

人生どのような風が吹こうとも天に輝く月のように、清々と生きたいもの。

自分を見失いそうになったときは、天の月の視点から覚めた目で眺めれば、自分自身が冷静さを見失いかけていることに気づかされ、改めてその出来事を冷静に受け止められます。

自然界によって心洗われることのなんと多いことか。

常緑樹を除いてはすべて葉が落ちてしまったこの時期、裸になった木々の姿は一抹の寂しさを感じます。

しかし、それでもよくよく枝を見ますと来年の芽が少しずつ膨らんでいってるのが確認できる。

ゆっくりと寒さに耐えながら来春を待っている姿にも教わることがあります。

こうして自然界の営みと人生を重ねてみれば幾多の試練にも耐えられよう。

感謝

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「且緩々・しゃかんかん」2016/12/19(月)

だいぶ昔のお話しです。
とあるお寺で修行していたお坊さんが少しでも早く悟りたくて、お師匠様に次々と矢継ぎ早に質問をするのでした。

お師匠様はまずは一言、「且緩々・しゃかんかん」と弟子をたしなめたといいます。

且は、且つ、というような使い方もしますが、「ひとまず・とりあえず」というような意味があります。

緩は、「ゆるめる・ゆるやかに」という意味があります。

そうすると
「且緩々」は「落ち着きなさい。

慌てず、焦らず、ゆっくりと」こんな意味が込められた言葉だと理解できます。

私たちも日々、少しでも早く良い結果をだそう、出したい、物事を早く片付けてしまおうと、焦る必要もないのについ気持ちが先走って空回りしてしまうことがありますよね。

慌てている自分に気がついたら、自分を見失っている自分に気づいたら「且緩々」と心の中で呟いてみてください。

物事につまずいたり、さほど難しくないことなのに失敗をしてみたりということは誰もが経験していることでしょう。

ゆっくりと、冷静に向き合った方が着実にということが多いことに気づかされます。

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「和光同塵・わこうどうじん」2016/12/9(金)
「其の光を和(やわら)げて 其の塵(じん)に同ず」という詩があります。

光を和らげての光とは自分には実力が備わっていてもそれを表に出さずに「塵に」つまり周りの人々と「同ず」調和する。

という意味を含んだ老子の言葉だと思います。

人間のできた人、懐の深い人、寛大な心をもった人というのは自分を必要以上に誇張するような言動はしないものですし、逆に人の言うことをしっかりと受け止めてくださいます。

そのうえで意見を言い、手を貸し、人を生かそうとする気概に溢れている。

「同ず」すなわち和していけるわけです。

こういうことと似たような教えが仏教にもあります。


「菩薩がその威光を和らげて、塵にまみれた俗世に仮の姿を現して人々を苦から救う」
というお話し。

『観音経」のなかにある観音菩薩がその代表的なところでしょうか。

塵にまみれたとは、煩悩に苦しむ衆生(人々)のことで、その人々のなかに和して済度(助ける)、すなわち慈悲心で心を救済していくというお姿こそがまさに菩薩行という言葉で表現されるのでしょう。

よく仏閣や寺院を巡りますと観音像の前で手を合わせて頭を垂れている人の姿を目にすることがあります。

実は、観音像そのものは木造ですからそこには心はありません。

ただ、そのお像の姿を通じて観音菩薩のお心というものに触れるという所作のなかに仏心が存在するわけです。

つまり、木造に手を合わせているご自身の心にこそ観音様と同じ仏心があるのですよということ。

観音さまからすれば、私の姿を排してくださっているあなたの御心こそが仏心なのですよ。

と観音さまは微笑んでくださっています。

このように観ることはできないだろうか。

観音菩薩とは、心が慈愛に満ちていて世俗的な価値観に囚われない心の境地まで成長した方のことを表現する言葉です。

菩薩界の人びとは、文字通り慈悲の心、愛の行為が先に立ちます。

常に天の心を尺度として、愛行に一身を投げ出す人をいいます。

人びとの喜怒哀楽に心を動かすことなくひたすら、愛と人びとを生かすことに人生の目的を求める姿はそう簡単にはマネのできることではありません。

しかし見習いたいものですね。

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sen
2016/12/5 (月)

虚を致すこと極まり、静を守ること篤し
これは老子のことばですが、『虚を致すこと極まり』とは、徹底して心を空にして、というふうに解釈しました。

そして『静を守ること篤し』とは、深い静けさをしっかりと守る、というふうに解釈できます。

雑念を追い払い、静寂を保っている“からっぽ”の心。

そこに見えてくるものは…、ズバリ、「真理だ」と老子は説いているのではないでしょうか。

私がもっている講座のなかで「心を空っぽにしたら自分ではなくなるじゃないですか。」と質問した人がいました。

なるほどそういう考えもあるかもしれません。

しかし、人間は本来、心を空っぽにしろといわれたからといってそう簡単に空っぽにできるものではありませんね。

ここでいゔ空っぽの心゙というのは、自分の個性や人間性を無くすることではありません。

余計な分別をもたずに物事をありのままに観るということを教えています。

物事や現象を正しく判断するには不必要な価値観や偏見や拘りをもたずに「ありのままに観る」ということが欠かせません。

先の質問者のように、心を空っぽにすることは、決して自分を無くするのではなく、逆に自分を生かすことになるわけです。

何故なら、心に執着や自分だけの価値観、偏った欲、エゴという非常に不確実な思いがないと、冷静でかつ正しい状況判断ができるからです。

心を空っぽにすることなどできませんが、できるだけ平静な心で対処したいものですね。

これが表題の「虚を致すこと極まり」です。

仏教的には煩悩とも言えるでしょう。

「無心」という言葉もありますが、これも心を無くすることではなく、自分を否定することでもありません。

ありもままに対処するには、ありのままの心で向き合う姿勢が問われます。

ここでもあれこれと損得勘定が働いたり、自分の立場を優位にというような分別が働くと「無心」とかけ離れてしまいます。

人間は知恵ある動物であるからこそ霊長類の頂点に位置するのでしょうが、しかし、その人間が、執着、偏見、自己中心、傲慢、驕り、身勝手というエゴに支配されたときに弱い立場の者をいじめたり殺したりと動物以下の行動をするのも人間です。

感情的にならずに最低限の理性を見失わずに生きたいものですね。
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心を亡くする 2016/11/25(金)
心静かに坐っていると、聴こえてくるのは紅葉を終えた木々の枝を通り過ぎる風の音。

日々何かと心が忙しい私たちはそんな音に気づいても心を向けることなど滅多にありません。

また茶の湯では、釜の湯が煮えたつ時の音を「松風」と呼ぶそうですが、今、この一瞬を大切にするという、禅の教えが込められています。

「忙しい」とは「心を亡くす」と書きますが、日々急ぎすぎ、忙しすぎて、たくさんの大切なことを見落とすことはないでしょうか?

仕事をすること、物事の処理、そして何事についても少しでも早く結果を出さそうと焦る日々。

それほど焦る必要もないのについ気持ちばかりが先走って空回りしてしまうことがあります。

慌てふためく自分に気がついたら「慌てない・慌てない」と心の中で呟いてみると落ち着いてくるから不思議です。

きょうは自分自身が慌てずに、焦らずに、心静かに歩める自分でありたいとの願いをもって述べてみました。

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「人生の岐路  2016/11/18(金)

「さてどっちにしようか?」
このように二者択一の選択を迫られた経験はないだろうか。

若い人の場合は進学や就職、そして結婚というものがあります。

仕事上の判断有り、人間関係の判断有り、病気をして入院や手術することもあるでしょうし、死に直面する場合もあるかもしれません。

そんな人生の岐路に立った時、考え抜いた結果として一歩前に踏みだすために「覚悟を決める」という方法があります。

ところがこの「覚悟を決める」ということ自体がその局面にたったとき、様々な感情に押し潰されそうになって簡単には決断できない。

難しい状況にたったときほど即決しがたいものだということでしょうか。

人に相談したとしても参考にはできるが最終決断は「自分自身と向き合う覚悟」で成されるようになっています。

他人や身内、友人に頼ることができない極限状態ということもあります。

ということになるとやはり、最後は勇気をもって決断するしかない。

自分自身と自分の大切なもののために。

ただ、先を考えすぎて決心する前に見通しをつけようとしたり、結果を望む気持ちが優先してしまうと「覚悟」はできなくなります。

先ずは、小さな勇気こそが後の人生を明るいものにできる唯一の意思決定となる。

何事もそうですが覚悟に勝る決断はありません。

勇気というのは、あえてリスクをおかす意思決定であり、苦しみや、ときにはや失望をも受け入れる覚悟でしょう。

こうしてみると勇気と決断は前後左右の両輪のような関係にあって作用していることがわかります。

勇気と決断。
あとは天に任せるというやはり覚悟です。

今の時代は長寿国なって
8090歳で健康な人たちも珍しくはない。

一億総勢、健康志向が強く『生きながらえる』ことを考える人は大勢いても、『命を使い切る』ことを念頭に置いて人生を生き貫く人は多くはないように思われます。

私は仕事でたくさんの人たちとお話しをさせていただく機会が多いのですが、それぞれの人生模様をみるにつけ考えさせられます。

人生を全うするということは生に執着するよりも、いかに生きるかではないかと。

ここでもまた「覚悟」
が問われてきますね。

如何に生きるかは、そのまま、如何に死ぬるかにつながっています。
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sen

春夏秋冬にみる真実 2016/11/7(月)

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月はいって数日、朝夕がめっきりと肌寒くなり霜が降りるようになりました。

上着も少し厚めのものを着るようになってきました。

こうして季節の流れに目を向けますと、一年という歳月の流れがとても早く感じられます。

春夏秋冬の四季は私たち日本の風土を育み。心の情操にも強く影響を与えてきます。

この自然界はどれほどの恵みを与えている計り知れません。

太陽は人類誕生以前から今日まで何の見返りも求めずに地上に光とエネルギーを与え、国境や人種差別もなく、そして分け隔てなく照らしてくれています。

人類誕生以降、歴史は繰り返すと言いますが、個人の争いがありそして国同士の戦争があり、人類にはいつも戦いの場があります。

人の一生は良くも悪くもいつも新たな経験に彩られ、様々な人生を描いてゆくのが定めのようです。

楽な時よりも苦しい時の方が長いかもしれない人生。

しかし、それでも新しい経験を重ねるほど私たちの心は豊かになり、以前にも増して、より広い寛容な心が開いていくものでしょう。

迷ったり悩んだり、試行錯誤しながらの人生は私たちにとって多くの気づきを与えてくれますが、人によっては迷妄と執着をつくり、返って心を小さくさせ、人生の意義と目的を見失わせることもある。

否、そうした人生も多いかもしれません。

苦しさに耐えきれず心病む人もいるでしょうし、恵まれた環境に気づけずに不満や愚痴をいって日々心不調和な暮らしをする人もいます。

差もない目先のことにとらわれて大きな流れをみることができないのもまた人間であろうか。

この世的な視点でものごとを捉え行い、それに執着しやすいという側面もあります。

つまり物や金や名誉や地位、そして知識や資格を鼻にかけて生きる愚かさもあります。

言い換えれば、目に見えるものや出来事には価値観をもてるが、かたちに表れてこないことに関しては価値観を見いだせず、否定的であるということもあるでしょう。

執着から離れるには調和された心を常に忘れぬ生き方をすることで事態の悪化や難を最小限度にとどめることが可能となるものです。

目に見えないことを大切にするというのは、心を大切にするという意味ですが、これを非現実的ととらえるのではなく、常に自分自身の考え方価値観、そして言動を客観的な視点で見ることも大切ですね。

私たちは大自然のなかでこそ生かされているのであり、その大自然の秩序はそのまま人類調和の為の支柱であることを忘れてはならないでしょう。

春夏秋冬に見ることができる季節感にも人間の心が育てられていると実感できるはずです。

そうなると人間の精神も肉体も、大宇宙のはからいによって創造され生かされていることは明らかです。

このことを深く心に落とすならば、この宇宙の恩恵に私たちがどう報いるか、生きるか、思考するか、そして行うかによって、真の人間の在り方があるのではないだろうか。

正しい生き方、正しい心の在り方は一つの法則として、春夏秋冬にみられるような真実と大地のうえに立つものでなければならないでしょう。

大自然界にみられる法則と秩序、人は決してこの法則から離れて生きるわけにはいかない。

自然界の法則はそのまま人間の調和された心の在り方として存在しているものであって、この法則から離れたときに怒りが生まれ、世界が争う戦争にまで発展してしまう。

真実というものは素朴で平凡な事実の上にこそあるものだと私は何度も実感しました。

そして真実というものは、知識や理論のなかにあるのではないということも実感しました。

自然界には私心のない正しい教えがあり、それこそが私たちの心に気づきの機会を与えてくださいます。

私たちは大自然の秩序、宇宙の法則に沿った生き方を心の支柱として生活していかなければなりません。

願わくば、絶望や失意、委縮、悲しみ、怒りに心を向けるのではなく、明るいものに目を向けて生きたい。

明るいものとは、発奮であり、忍耐であり、挑戦であり、勇気や少しの努力です。

心に光を灯すということは特別な事ではなく、前を向く小さな勇気です。

そして窮地に立ったときでも「もう駄目だ」ではなく、「まだ駄目だ」という気持ちを持つことであり、前を向く心の勇気だと思うのです。

辛くて涙が出そうなときは空を見上げるといいい。

空の深さと広さは疲れた心にひとときの安らぎと慰めを届けてくれます。

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sen

人生を楽しく生きる 2016/10/26(水)

実は、人生をつまらないと感じていたことが過去(少年期)の私にありました。

何のために生まれてきたのか?

何のために生きていくのか?

この世に生まれてきたことが恨めしく思えていたこともありました。

しかし少年期の私には何の答えも出せようはずがありません。。

勉強しなければならないことにも意味を見いだせずにいたのです。

ただ、働いて自分の力で生きたいという思いだけは強くあったことを記憶しています。

学校で教わることは勉強に関してのことであって、生きるための術を学ぶことはできませんね。

やがて社会に出て私が気づいたことは、たった一度しかないこの今の人生を楽しく送るのもつまらなく送るのも、すべては自分に委ねられているということ。

そうなると自分の生き方次第で、楽しくもなるし、つまらなくもなるわけです。

ですが、人生の意味も深くは分からぬままに、ただただ生活するために一生懸命に働いていたように思います。

30代に入ってから人生のあり方を深く探求するようになりました。

何のために生きるのか、どのように生きるのがいいのか。

何故生きなければならないのか。

同じ生きるなら楽しく生きる方がいいに決まっている。

35歳の時に禅宗の僧房に朝の五時から通って座禅三昧になった時期が三年間。

随分と価値観が変わったものでした。

物や金に執着する気持ちが薄らぎ、どう生きたら人生を楽しめるのか、心が楽に生きられるのかと探求しました。

まずは自分がやりたいことを明確にする。

つまり目標を定めるということ。

社会に目を向けてみますと人生を楽しく生きている人たちは、一生のうちに必ずやりたいことを明確にしています。

 人生をつまらないと感じている人はこういう目標を立てることがないようです。

人の人生を見て「いいなあ~羨ましいなあ」と憧れることはあっても「自分には無理」といって諦めている場合が多いように思います。

社会に出たばかりの私にもそういう時期がありました。

そういう時期を乗り越えたのは「小さな目標設定」でした。

大きな目標を達成できなくても小さな目標なら何とかクリアできるものです。

少しだけ頑張ってみることはとても大切なことです。

たとえ小さな目標でもそれを達成できた時の喜びは大きなものです。

そしてまた小さな目標をたててそれをクリアする。

こういうことを何度となく繰り返していると自然に徐々に少しずつ大きめの目標をクリアできるようになってきます。

改めて人生を楽しくなんて考えなくても、こういう小さな成功体験を積み重ねることで、人生を楽しくすることができるようになるから不思議ですね。

どんなことでもいいから自分の目標を立ててみてはどうでしょうか。

何事もやる前から諦めてしまっては行動できようはずがありません。

人生を楽しめる人は。

挫折を乗り越える勇気を忘れていない人。

過ぎたことに心を縛られない人。

まだ起きてもいない先のことを心配して不安感に翻弄されるようなことをしない人。

いま為すべきことに専念できる人。

こういう考え方、対処の仕方ができる人ですね。

人間は時々、悲しみ、苦しみ、

悩みに耐えられないこともある。

とても絶望的な気持ちになるときもある。

それでもわたしは、

生きることは素晴らしいことだと知っています。


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眠れない夜 2016/10/15(土)

人は眠れない夜を過ごすことがある。

少し意味合いは異なりますが、小学生の頃に明日が遠足だということで楽しみから気がはやって寝付けなかった経験があります。

私は幸いにして不眠で困るということはありませんが、年を重ねるにつれて眠りが浅くて心配だ、不安だといってくる人がいます。

運動量が減ってくると睡眠が浅くることはよくありますが、これはごく自然の生理現象であり、体の仕組みであります。

様々な悩みや心配事が増えて寝付けなくなるという話しもよく聞きます。

悶々として寝返りを繰り返しながら夜が更けていく経験を何度となくされた人もいるでしょう。

眠れない、睡眠が浅い、不安だ、心配だ、こういう状態がつづくと体のリズムが徐々に狂い始めてきます。

実際は先のことをあれこれ思い煩っても状況が一変するわけでもありません。

このことをしっかりと認識することが大切です。

考えることは大切なことですが、しかしそれも程度が過ぎると執着になるし、拘りになります。

この拘り、執着が人間の精神を狂わせ、強いては体調のリズムまでも狂わせていきます。

解っているかと思いますが、精神状態がアンバランスになると身体のリズムまでアンバランスになってきます。

五体、内臓を支配しているのは運動神経であり自律神経であります。

その自律神経、運動神経を支配しているのは脳という指令塔なのですが、更にその脳を支配する存在がという司令塔です。

したがって、心の在り方いかんによって体調が良くもなり悪くもなるということがご理解いただけるかと思います。

そういう意味では何事も覚悟をもって臨むということ、事の判断を決めたらあとは時と運命に身をゆだねるほかない。

何かしらうまくいかなくてもその時にまた考えればいい。

先のことをいま心配して不安になったり怖がったりしてもどうしようもありません。

思いを定めて任せるという気持ちが大切ですね。

人間生きている限り、悩みや心配事が尽きるということはありません。

誰でもそのことに囚われ、心を惑わせがちですが、自分からそのルツボにはまっていかないようにしたいものです。

きょうはきょう。明日は明日。

よくよく考えてみれば、こうして暖かい布団のなかで眠れることだけで十分幸せなことです。

年を重ねて、ものの分別、考え方がしっかりしていれば生き方も穏やかであろうはずですが、逆に些細な事にうろたえてくよくよと不安に苛まれ、自ら体調不良になっている人もいるのです。

そうならないように私自身も柔軟な心で、素直に生きていたい。

体の使い方、運動の大切さ、日々の心の在り方を忘れずに暮らしていきたいものです。

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sen
あの世のお姿
先日、私の10年来のソウルメイトが他界し、その二日後の七日夕方からお通夜に列席させてもらった。

棺に納められた彼女のお顔は生前のお顔より痩せ細ってはいましたがとても穏やかで柔和な表情でした。

参列した方々のなかには目を赤くしてハンカチを口元にしている人たちがいます。

僧侶の読経による供養が始まって間もなく、祭壇の左側、つまり肉体の自分が納められている棺の足元に亡くなった彼女が立ってい列席者に頭を下げている。

にこやかに、すっきりとした表情で緩和ケア病棟に入院していたときの辛そうな表情はどこにもない。

心のきれいな人は肉体から離れて次元の異なる世界にはいるとこうまできれいなお顔になるのかと感心してしまった。

それはまぎれもなく魂の美しさであり、心が調和されている証であるということでしょう。

執着のない心、拘りのない心、人にも家族にも優しく慈愛をもって接していた人間の魂は本当にお顔に現れてきれいなものだということを実感した。

反対に自我が強く、他人の嫌がることもお構いなしに自分の思い通りに行動するような人があの世のいくと表情は険しく、怨みや悲しみ、そして憎しみの心が見にくい形相となってしまい災いさえもたらすこともある。

僧侶の御勤めが終わってまもなく解散になったのだが、やはり別れという気持ちから一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。

Sさん。また来世でね」そういって棺の肉体に挨拶をして帰路に就いた。

あたりはすっかり暗くなって秋の涼しい風が顔をなで、すすきの穂をゆらしていた。

さて、人間の容姿はあくまでもこの世では肉体の話であって、お顔が美人だからハンサム、イケメンだから心がきれいだということではないですね。

一方、人間の心というものは肉体をもったこの世では通常ならば見ることができません。

ですが、肉体生命が終わって次元の異なる世界に移動した時点で私たちの心のままの姿になるようにできています。

それは四次元以降の世界では肉体がないからこそ心の実相が霊体の姿となって表れるというわけです。

つまり自分の心の実相を隠せる物(肉体)がないということがあの世の姿だということですね。

それだけに日頃から心を調えるような訓練といいましょうか、学びといいましょうか。

心がけということが大切かと思います。

自分の意のままに生きるのはいいのですが、自分の我というものに気づかずに生きているようでは決して身も心もきれいなお姿になることはありません。

あの世では尚更のことです。

sen

友の死 2016/10/5(水)

互いに深い精神的な繋がりといいますか、縁を感じる大切な人のことを「ソウルメイト」ともいいます。

本日
2016105日の夕方、胸騒ぎの直後にKSさんのご主人から電話をいただいた。

「これまでお世話になった人に丁重にお礼を言っておいてくださいとの妻の言葉でしたので連絡させていただきました」とのことだった。

礼儀正しく心配りの生き届いた方です。

私にとってソウルメイトでもある
KSさんは55歳の若さで逝去されました。

進行性の高い乳がんを発症し手術を受け、抗がん剤を投与していましたが再発と治療を繰り返しながら状況は徐々に深刻になっていったのでした。

二カ月ほど前に緩和ケア病棟に入院して静かに残された命を精一杯いきているところに連絡が取れ、友人と二人で訪問をさせていただいた。

とても静かな一人部屋で私たち三人の時間が過ぎていく。

お互いに表面を取り繕った言葉など必要ない。

ふり絞ってかけた言葉が
Sちゃん。また来世でも一緒に勉強しようね」でした。

彼女は「先生。またぜひお願いします。一緒に勉強させてください」といった。

心の勉強をした人間だからこそこのような言葉を交わせるのだろう。

三人とも気持ちは同じだった。

お互いが目にいっぱい涙をためて手を握り合い、声を殺していた。

彼女の胸の内を思うと心が痛んだ。

しかし、私は感謝の気持ちがあった。

こういう心根の穏やかで優しい人間との巡りあわせに。

そして私自身も彼女の生きざまに学ばせてもらったことに。

右腕は太ももぐらいに腫れあがり痛々しく、皮膚はただれてジクジクとして痛むという。

体はやせ細り元気なころの面影とはかけ離れた姿だったが、しかし彼女の目はそれとは別に優しく穏やかで澄んでいた。

元気なころの目とは違う目です。

覚悟が決まっていると私は感じた。

すべてを精一杯やりつくした満足と納得がなければこういう顔ができようはずがないと心から思えた瞬間でした。

彼女はヨガの講師をしながらもエステサロンをやり、整体技術を取り入れたいと友人と二人で私の院に整体を勉強しに
3カ月ほど通ってきたことがあった。

なかなかセンスの良さがあったし、彼女の持つ優しい精神性が施術のなかにも表れていたものだった。

かけがえのない「ソウルメイト」と言える存在であった。

愛別離苦という言葉があります。

親愛なる人、大切な人、かけがえのない人と別れ離れることの苦しみを表現した言葉です。

「愛別離苦」ということについて釈尊は、生ある者は必ず死すること、どんなに愛すべきかけがえのない者であっても死などでの別れは避けられないことを教えておられます。

諸行は無常であること、諸法は無我であることへの気づきのきっかけをお与えになられた言葉でもあります。

KSさんご夫婦はとても仲のいいご夫婦でした。

ご家族が協力し合う姿も存じております。

覚悟ができているとはいっても別れは辛いものです。

まして家族のつらさはどれほどのものかと察するに余りあります。

私の友人であり、ソウルメイトである
KSさんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
同時にご家族の心安らかなることをお祈りいたします。

KSさん。
肉体をもって生きるがゆえに辛いのであって、肉体から離れた今なら痛みの苦痛から解放されて楽なはずです。

覚悟のできたあなたであればこそまっすぐに光り輝く天上界まで昇天していくことでしょう。

Sさん。ありがとう。

また会える日まで。

合掌。
観童


sen

心の成長 2016/09/19(月)

自分が成長するために
心が成長するというのはどういうことでしょうか。

例えば「心の広い方だ!」「器の大きい人だ!」というような表現をきくことがあります。

社会生活のなかで一番難しいのは人間関係だと思うのですが、その人間関係のなかで意見が合わないとき、あるいは些細なことで行き違いがあって問題が発生したとき、理不尽な出来事があったとき、その他さまざまな問題が発生したときにそのことに対してどう対処するのか。

こういうときこそその人の心の広さや、器の大きさがあるのかどうかが試されるタイミングだろうと思います。

難しい人間関係のなかでいつもトラブルが発生しやすい人、そういう場面に出くわす人、または自らがそういう問題を引き起こしやすい人、だけども原因を他人のせいだと思っていて自分は正しい、間違っていないと思っている人。

こういう考えや思いの人の場合は心の成長がかなり難しいものになってきます。

何故なら、自分の思いや行動を省みるということをしないし、改めようともしないからです。

人の迷惑を考えることもできず、考えようともしない、まして自分が迷惑をかけていることなど気づけもしない。

これは他人どうしの関係に限らず夫婦関係においても同じです。
こういう状態では「心の成長」なんて進みようがありません。

反対に年を重ねるごとに尊敬できるような人間になっていく人というのは、いつも自分を省みる習慣を忘れていませんし、何よりも生涯学びだというスタンスをもって生きているものです。

年月は「心の器」という大きな差をつくります。

心が成長していくために先ずは自分を知らなくてはならないでしょう。

この自分を知るという大前提があればこそ初めて今後の成長に大きな結果をもたらすことになると思っております。

まずは第一に「自分の感情・気分を知る」こと。

具体的な方法としては、少しだけ自分を省みる時間をもつようにし、生活の中での自分の感情・気分を振り返って、次のような自問をしてみればいいでしょ。

「どういう時に、どんな場面でどんな悪感情が湧いたのか?」

例えば、怒り、憎しみ、イライラ、嫉妬、不安、後悔、暗い気もち、落ち込み、相手を責める気持ち、自分の非を認めたくない感情、等々。

そしてどういう時に、穏やかな感情、幸せな気もちになれたか、等々具体的にノートに書きだすとさらに明確になり有効な成長方法となります。

自分の心の中に湧きやすい悪感情を知ること、そしてそれを封印するのではなく、否定するのではなく、しっかりと認めるところからが本当の成長へのスタートになります。

いいことばかり考えていれば成長できるというものではなく、自分の悪しき癖を認めてそれを謙虚に受け止めて改める努力をするところから成長が始まるということ。

自分の良くない癖、気分にその場で気づくことは、はじめは難しいかもしれません。

でも、あとで振り返ってみれば、気づけることも多いはず。

自分はこういう時、こういうことがあった後、こういう気分になりやすい、自分の思いを通してしまう、相手の都合や迷惑を考えずに行動してしまう、いや、迷惑はわかっているが自分中心の行動をしてしまう。

このように具体的に自分の悪しき癖、傾向性を再認識することができ、そういう再認識を習慣化するようになれれば随分と成長が加速されてきます。

自分の悪感情の癖、傾向に気づいても、決して自分を責めたり落ち込んだりすることはありません。

自分を省みるのは、自分を育てるため、そして幸せを実感できるようになるためです。

幸せは外にあるのではなく、自分の心の内にあります。

否定からは何も生まれてはきません。

認めることの大切さを理解したいものです。

自分を否定し、相手を非難するような心をもった人間の目は、非常に奥底で青白い閃光を放つような険しいものがあります。

そしてその人の心から発する波動は鳥肌がたつようなおぞましいエネルギーとなって伝わってきます。

そばにいることが苦痛なものです。

それだけに私たちは自分自身の心が温かく優しく、そして寛容で慈愛を忘れぬ心でいたいもの。

それができれば傍にいるものに安らと光で満ち溢れた無言の癒しを感じてもらえるでしょう。

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sen

今日を生きる2016/9/7(水)
人間は楽しかったことよりも悲しかったこと、苦しかったこと、悔しかったこと、他人に言われて傷ついたこと、腹立たしかったこと等々、自分にとって受け入れがたいことや思い通りに行かなかったこと、自分にとって不都合なことを思い、引きずることのほうが多いようです。

こういう時の心は苦しみや怒りに満ちています。

これまでも何度となく聞かれたことですが、『あの世はありますか?』という質問です。

あると言っても質問者自身が「ない」と思っている場合はそう簡単には信じられないようすです。

形のあるものなら目の前の物を見て確認できますが、あの世の存在にはこの世のもののように形がありません。

ですから一般的には誰も確認のしようがないわけです。

しかし、実際は「あの世」はあります。

大事なことは、確認のしようがないあの世の存在の是非を問うことよりも、いま生きている自分自身が存在しているという事実の一点です。

これだけは疑いようのない確かな現実です。

だから私たちに大切なのは、確かな事実である今の時間をどのようにして実りあるものにして生きるかということではないでしょうか。

変えることのできない過去に拘り、その過ぎた時間や出来事に心向けて悩まされ、大事な時間を浪費することや、「死んだらどうなるのだろう」という不安に苛まれて日々悶々と暮らすのはもったいない話です。

であれば、今を大切に精いっぱい生きることが明日の幸せにつながるでしょう。

だからこそたくさんの汗を流し、優しさを分け与え、今をひたすら生きることが尊いと思うのです。

過去を引きずったり、先を心配したりするような生き方をする傾向にある人ほど今という時間、日々を苦悩しながら暮らしています。

死後の世界の良し悪しなどは、あの世の「有る、無し」を心配するよりも、いかに今を良い人生にするかで決まってしまうものだということ。

何故なら、「あの世」はあくまでもこの世の延長上にあるからです。

今を良く生きられないのに、あの世で良く生きられようか。
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sen

gazou
うつ病 2016/8/27(土)

うつ状態になると様々な症状で辛い思いをする場合があります。

例えば、朝の起床が非常に辛い、主婦の場合は家族のために食事の支度をする気になれない、掃除をする気力が湧かない、人に会いたくない、スーパーに買い物に行くのがおっくうだ、怖い、感動がない、テレビを見たくない、活字をみたくない、無味乾燥で気持ちが沈む、等々の症状を訴える。

50代男性の話をきかせていただいた。

彼は心療内科でうつ病と診断され抗うつ薬を
2種類と安定剤と眠剤を処方されたが抗うつ薬はどうしても飲む気になれず服用していないという。

一時間ほどお話を聞いたり、アドバイスをさせていただきましたが、私は、彼には抗うつ薬は必要がないと判断した。

人事異動があり慣れない仕事を一生懸命やって家に帰っても仕事が頭から離れずに悶々としている日々で、精神的にも疲労困憊しているのですが、うつ病という診断をされて抗うつ薬を飲まなくてはならに状態とは明らかに違いがみてとれます。

私はたずねました。

「あなたの長所と短所を言ってみてください」
と。

彼はしばらく思案している。
「生真面目なところはありませんか?」と問うと「長所はわかりませんが、短所は一つのことに拘るところ。周りに真面目すぎるといわれます」といった。

ここがうつ病を患う人に共通する心の傾向性だといえます。

私がこれまで相談にのってきたうつ病診断を受けた方々の精神状態を根底からみますと、どうしても偏った心の使い方をしていることが発見されるのです。

頑な、生真面目、融通が利かない、自分を責める、一人で抱え込む、過ぎたことに拘る、先のことを必要以上に心配する、こういう傾向の方に発症しやすいことが多いようです。

心の癖を少しだけ修正できれば、考え方、受け止め方、対処の仕方を少しだけ変えていく工夫をすればうつ病を発症しなくて済みます。

この男性は抗うつ薬を服用していない分だけ自分の意識がしっかりしていましたし、現在も仕事についています。

自分の傾向性をよく知って少しだけ変えていく努力ができれば何ら問題なく生活していけるでしょう。

心療内科での対応と内容を確認させていただきましたが、
『最初は10分ほどの時間でした』とのこと。

次回からは症状を聞いて薬を処方するという流れで
5分かからないという。

こういうケースはとても多いですね。

患者さんの生活状況や精神状態、深層心理まで把握することを考えれば時間的な不足は明らかです。

医院のほうにもいろいろな事情があろうかと思いますが、状況を把握してアドバイスしていくには少なくても
30分とか1時間程度は要するのではないだろうか。

精神的に参っている時というのは「仕事のストレスで!」といってくるのですが、そもそも社会の中で生きるということはストレスがつきものです。

同じ仕事を同じ職場で、同じフロアで働いていながらもそれほど身に堪えずやっていけてる人と、精神的に参ってしまう人との違い。

職場内での人間関係も大いに関係あることは理解していますが、これは一言でいうとストレスに対する受け止め方、対処の仕方の違いがあります。

ここに見えてくるのが「個性・傾向性」というものかと思います。

仕事のストレスとか、人間関係のこじれとか、これらはみな生きる過程の中で起こりえることです。

しかし、原因はそこだけではない。
このようなことは発症のきっかけであって、あくまでも根本的原因はその人の心の深層部分にある傾向性だと捉えています。

何故なら、これまで多くの方々のカウンセリングをおこなってきて言えることは、自分の傾向性(心の習慣、癖)を知り、それを受け入れて認め、自分の努力で軌道修正をしていく方は回復に向かっていくからです。

薬で治るものという考えの背景には、どうしても依存的な思考性が強くあり、根本的改善の妨げになる場合があります。

徐々に薬を減らす勇気と決断が抗うつ剤から卒業できる最大の薬となることに気づいていただきたいものです。

うつ病は、自分自身の心から発する症状だという基本に立ち返って対処することで克服できるでしょう。
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sen
「力」について2016/8/21(日)
強いものに憧れるというのは内容こそ違え男も女も共通のところがあるかもしれません。

そういう意味では人間は力というものに憧れを持っているところがあります。

例えば力ですが、権力、金力、体力、気力、瞬発力、行動力、眼力、腕力、能力、目には見えないが霊能力といったものまで、力という言葉はさまざまな意味を内在しています。

人間の心から発する意識も一種のエネルギーです。

力に憧れるのは人間である以上、当然のように思われるのですが、しかし、正しい生き方、協調や調和という観点からすれば力=正しさでもなく調和でもありません。

力は人類の助けにもなりますが、力によって破壊され滅ぼされることはたくさんあります。

目に見える力も見えない力もそうですが、力は自分の分をわきまえて駆使することが大切かと思います。

自分を知らず、自分の分をわきまえずに無視した力への憧れや行動は、やがては必ず我が身を滅ぼすことになりかねません。

力はエネルギーであり、そのエネルギーというものは何らかの意思、意識の作用があって、はじめてその力を発揮するものですが、その目的とするところは協調であり、平和であり、世界の大調和にあらなければならないでしょう。

たとえば、原子エネルギーを平和利用に使うか、戦争兵器に使うかは、私たち人間の判断に任されているのと同じことです。

人類が探し求めた科学的なエネルギーに限らず、人間の周囲にあるさまざまな力は、各人が意思し、意識として働くことによって生じてきます。

先に述べた、権力、金力、暴力、体力、気力といったものはすべてそうです。

心に思うこと、念ずること、意識することから、こうした力関係が生じてくるわけです。

生まれたての赤子のように、自然のままに生かされた状態、親に委ねられた状態では、こうした力関係は生じてきません。

狩猟生活の原始民族をみてもわかるように、力に憧れるのは人間である以上、必然の成り行きといえますが、しかし、社会を不調和にする力は、やがて循環の法によって淘汰されます。

権力、金力、暴力といったものは、社会に歪みをつくり、争いを生むので、その離合集散はまことに目まぐるしく、やがてはわが身に降りかかってくることになります。

一方で、霊的なエネルギーというものは、見えないエネルギーの集中された働きですが、これもまた調和された意識から発動するエネルギーでなくては相互に身の破滅になります。

つまり、霊能力とは、他を生かす慈悲と愛の発意によってのみ行使されるものであって、邪心、野心、欲望、怨み、妬み、怒り、エゴから発動する念や力は間違いなく循環の法則によって己自身の崩壊につながっていくことになります。

法力と霊力、魔力というものは、外見は非常によく似ていますが、その中身は大分違ってくるわけで、心の歪みを持ったままで霊力を行使すると、やがてその反動がやってきて、先に述べたような法則によってその人をうちのめしてしまうでしょう。

法力と魔力のちがいは、愛があるかどうか、欲望という執着があるかないかであり、それは自分の心を冷静にみつめればハッキリするはずですね。

どれほど素晴らしい、巧みな言葉で人を引き寄せてもその根底にお金儲けや地位や名声になどに執着した欲望が潜んでいるならば必ずそういった言動が表面化してきます。

またそのような人間の背後で加担する霊はみな、邪悪な霊達や、低次元の動物霊(祭られた蛇霊や狐霊)か地獄霊ばかりだということ。

古来より霊的能力に憧れるのは人間の願いのようですが、まず大部分は欲望に根ざしているので注意が肝要です。

日ごろ正しい生き方をせず、心不調和なままに無理に霊的能力を求めると、結局は断食や滝行、読経、荒行に走ることになるのだが、これらの無理な行は心に隙間ができるため相当に危険が付きまとうし、一生を棒に振る者もいます。

行者の末路が悲惨だったという事例は枚挙にいとまがない史実をみてもわかるとおりです。

力を望まずして力が生み出されるもの、それが法力というところの大調和からか発せられるエネルギーです。

この大調和の本質は愛であり、慈悲以外のなにものでもない。

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sen

2016/8/18
愛と怒り

一番難しいのは?


人間は本来、人を愛し、人に愛されていくなかで喜びを感じるもののように思います。

それは人間には心があるからでしょう。

その一方で乱暴な言葉、乱暴な行動、乱暴な文章というものはどこから発するものなのかと考えてみますと、それはやはりその人の心から発するものです。

何かわからないけれどいつもイライラしている。

ちょっとした事に必要以上に腹を立てたり、キレたりする。

自分にとって不都合なことがあると相手が嫌がっていることなどお構いなしに執拗に関わってきて自分の意思を通そうとする。

こういったことの背景にはその人の自我心という非常に厄介な心の癖があります。

性格という言葉がありますが、この性格という固有の心(魂)は二三日でできあがったものではありま
せん。

この世に生まれてから今日までのあいだに時間をかけて今の自分の性格ができあがったものです。

もっと厳密にいうならばこの世に生まれる前の前世からの癖が修正できていないままに今世でも再び表面化してきたといえるでしょう。

人間は強いようでありながら反面、弱い精神面も持ち合わせています。

だからこそ自分の心磨きのために再び地上にうまれるという貴重な時間をいただいていることを気づけず、あるいはわかったつもりでいても自分の悪しき業に負けて他人の都合を無視した言動をとってしまうのが人間でしょうか。

しかしこれではあの世の低次元の世界にいってから「しまった。またやってしまった。」と後悔することになります。

おそらく心の奥底では「これはするべきではない」とわかっているはずです。

なぜその心の声を信じて従わないのか、そのように行動しないのか。

ここが善と悪の分かれ目、良心と邪心の分かれ目、調和と不調和の分かれ目となります。

結局、自分の悪しき我に負けるのか勝つのかという問題でしょうか。

自我心というものは、人の失敗をことさら取り上げたり、罵(ののし)ったりしますが、自分の非を認めようとしないとなるとこれはもう論外ですね。

こういう人たちというのは、悪い意味でパワフルですが概していろんな場面で人生そのものが人との和に欠けた状況となって発生しやすいものです。

周囲の人たちからすれば「自己中心的な人だな」と思っているのですが、ご本人はまったくそう思っていないから厄介です。

では何故、そういう人は、それほどまでに自己中心的なのでしょうか。

人が何かをする時の背景には二通りあるように思います。

一つは悦び。
そのことをすることによって心の充足を感じることが嬉しいし自分が成長できると解する人。

もう一つは怒り。
過去において人間不信に陥ったり、あるいは自分自身の未熟によって受け止め方が歪んでいるために周りとの関係に衝突してしまうケース。

心が未熟であればあるほど怒りそのものに突き動かされて行動してしまうところがあります。

人間には得てしてこういう傾向がありがちだからこそ「心を成長させたい・大人になりたい・寛大な人間になりたい」という思いがなければ、心という器は成長できないものです。

怒りの心を自分自身に向けたらどうなるだろうか。

先ずは自らの心身に影響が出ます。

精神的な疾患(パニック障害、自傷行為、鬱、
ストレス性の疾病、重度のアレルギー疾患、対人恐怖症、分裂病 その他)や、不登校、引きこもり、自己否定感などに悩まされることになる場合があります。

そして怒りを行動に出せば、非行、犯罪、暴力、虐待、いじめ、依存症、摂食障害、様々な依存心、誹謗中傷、等です。

さらに怒りを他人や社会にぶつけると、自己中心的、身勝手、対人関係のトラブル、出世や昇進、名誉などへの固執、社会批判、執拗な議論をふっかける、過激な改革論をかざすなどが考えられます。

もちろんこれらの事象が全て怒りを動機にしているとは言い切れませんが、怒りを背景にこれらの言葉や行動、そして症状を生み出している人たちもいるということです。

この中でも、人に対しての攻撃性が激しく、自分ではまったく悪いと思わず、怒りを自分以外の他人にぶつけてくる人の場合がトラブルとなりやすいわけです。

また、上記のようなタイプの人の場合、過去において、あるいは幼少時の家庭環境において心にダメージを受けた経験からくる不満、寂しさ、憤りから、強い人間不信を形成しているケースもあります。

人間不信というのは、言い換えますと自己不信からくる他者不信でもあります。

自分の心の中に怒りや複雑な偽りがあるため、人の心の中も自分の心の中と同じように複雑で怒りに満ちた信用できないものだと思ってしまう。

また、そうした根の深い不信感から、「自分は愛されなかったのだから、世の人たちも自分を受け入れてくれるはずがない」と思って、人間不信、社会不信に陥っていくということもあります。

ここでいう複雑な偽りとは、自分の心の奥底では「これは間違っている、こうすることが正しいことだ」という分別がついているのに何故か相手に対して敵対してしまうという自我心に負けた言動をすることを偽りというのです。

怒りが更なる怒りを生む
このような怒りのメカニズムから考えると、そういう人は相手に対して怒っているのではなく、自分を愛してくれなかった親や周りに対して怒りをぶつけているという深層心理をみることもできます。

こうしてみると、怒りをあらわにしやすい人というのは自分の幼少の頃からの家庭環境、親子関係のなかに決して調和されていない心の葛藤が背景に存在する場合が多々あります。

目の前にいる相手や出来事に苛立ち、怒っているようで、実はその原点は自分が過去においてよく思わなかった人間への怒りに自分を失っているということもあります。

噴き出してくる怒りによってイライラしたり、何故イライラするのかもわからない自分自身にジレて増々イライラして負のスパイラルということになれば自分一人では収集がつかなくなってしまいます。

こういう人の場合は他人がどうこうできるというレベルを超えてしまっていますからその時は対処のしようがありません。

冷静な時にゆっくりと時間をかけて話し合うという積み重ねが大切です。

もしくは何かしら社会の中で手痛い経験をしたときに「これではダメだ、何とかしなくては」という自らの気づきがなければ対処のチャンスがないと思います。

いい大人なのに周りを批判はするが、自分はいい子で仕切りたがりやの目立ちたがりや、自分を大きく見せることに躍起になるのですが、一つ注意されると駄々っ子のようにふくれっ面してすねているという人もいます。

褒められると天狗になるが、注意すると鬼の形相になるようでは、浅い心の器が見えてしまいますね。

いつも他人と自分を比べ、優越感を感じていないと嫌な顔をする人間は実は非常に心の狭い小さな段階だといえます。

幼少の頃からわがままを通して生きてきた結果がそうなる場合もあります。

親の言動をまねてそういうふうに育つ場合もあります。

友達が少ないと言って淋しそうな顔をする人もいますが、私なんかはとても友達が少ないほうです。

また多くの友達を欲しいとも思いません。

千人の友より一人の親友。

これが私の信条です。

ここが人間関係を考えるポイントではないでしょうか。

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sen

ohaka

お盆 2016/8/6(土)
お盆が近付くと決まって何かしら原因の特定できない体調不良におちいるという人たちをこれまでたくさんみてきました。

その人たちは毎年そういうことを経験することによって、自分は「この季節が苦手なんだ」という受け止め方をしていることが多いようです。

とうぜん体調が思わしくなければ病院に行って診察していただくのですが、「更年期による自律神経失調症でしょう」と言われましたで終わるケースが多々あるようです。

ある程度の年齢に達した人の場合はそういうふうに言われるのかもしれませんが、若い人でも原因の特定できない体調不良の人たちの場合は更年期障害による自律神経失調症とはいえないわけです。

そういう人たちに関しては、「原因がわかりません」という診断が下されて心療内科を勧められたり、または向精神薬を処方されたりというケースが多々見受けられます。

なぜお盆が近づくと毎年体調が思わしくなくなるのかということについて述べてみます。

先ずはお断りしておきますが、この世がすべてであって、人間が死んだらあの世での存在は信じないという考えをお持ちの方はこの話題はスルーしてください。

さて、あの世の人たちのなかには、自分が生前におこなってきたような傾向の行動をあの世にいってもまだ続けようとする人もいますし、子孫にも自分への供養を期待するような、比較的魂ステージの低い霊達もいます。

生前において人様に迷惑をかけても平気でいるような人はあの世に行っても同じようなことをする傾向にあります。

悪は悪を為し、善者は善を為すということの傾向はこの世でもあの世でも何ら変わるものではありません。

古来の伝統によって為されてきた供養の習慣を私たちが行うことによって、またそのことをお盆や彼岸などの時期に意識することによって霊界の故人、先祖たちのなかでも同調する魂の場合、普段にもまして騒ぎだします。

このような霊たちの波動が地上で生活する人間にとって、自分の弱いところに身体症状となって表れるから辛いということになってくる。

したがって、そういう人を浄化してやると、これまでの辛い身体症状がスウーと抜けます。

霊界の住人達のなかでも地上の人間にかかわってくるほとんどがまだまだ心が調和されていない、何かに執着のある魂だといえるでしょう。

それと平行して良くも悪くも、この世の人間の想念、意識のあり方によって影響を受けるのがあの世の霊人だということを知ってほしいと思います。

「供養」
丁度この時期でありますから、もう一つ供養について述べてみます。

供養というと、昔から仏とか先祖の霊に物を供える、お香を焚く、読経をする、ご法事をすることのように思われ、そういう習慣を行ってきていますが、真の意味での供養とは少々異なります。

先ず、供養の意義は「先祖の霊よ安かれ」とする子孫の祈り心が大前提になくてはなりません。

ですから「何々をお願いします。」は供養ではなく先祖霊に対する呪縛以外の何ものでもないということ。

物を供え、読経する、和尚さんを呼んでご法事をする、それでよしとする考えだとするなら真の供養からほど遠いものとなってしまいます。

私たちが現在こうして肉体を持って生きていられること自体、親、その親と、それぞれの先祖が私たちを生み育ててくれたからであり、それに対する感謝の心は報恩となって形(行い)の上に現われてこなければ意味を成さないことになります。

どこの親も、子どもが健やかに暮らしていればそれを最大の喜びとするのが人情ですね。

子孫が「見守ってください。何々をお願いします」といわなくても故人たちが高いステージにおられるのであれば見守ることができるのです。

ということは、このブログを読んでくださっているあなたがあの世に行った場合、あなたの子ども、すなわち子孫が心身ともに健やかに、幸せに生活している姿をみたならどれほど喜びであり、安心の境涯になれることでしょうか。

子孫の祈り心という供養の真意はそれゆえに、故人が生前、学びもせず、理解もしていない哲学的な経文の読経をすることではなく、物を供えるということではなく、まず私たち地上の人間が家庭の和合と調和にあることだといえるわけです。

人間の霊魂は、死という肉体機能の停止によって、あの世で生活をはじめます。

人によっては肉体が灰となれば人の魂まで無に帰すと思っている人もいますが、それは事実と異なります。

霊の存在に関する諸現象の知覚については程度の差こそあれ人間である以上誰しも備わっています。

霊現象は、すべてこの世の人の心と、あの世の霊の心とが作用しておこるものです。

魂の永遠不滅と、転生輪廻ということも単に人間の願望としてではなく、事実として存在します。

この世は三次元世界ですが、あの世は四次元以上、多次元の世界であり、それだけに、普通はある人には認知できても、ある人には全然わからぬということになってきます。

だからといって否定できるものでは決してないのです。

私たちの肉体機能では知り得ない
4次元以上の世界を認知するには心の目で観るしかありません。

ご法事で物を供えることは、本来、気安めにすぎませんが、死ねば無になると思いながらも、物を供えるその心や習慣を省みたり、確かめてみる必要があろうかと思います。

家庭の和合、調和が先祖の最大の供養という意味は、あの世に帰った先祖の霊が、その子孫の家庭をたえず見守っているということを知っておくことから理解していただければと思います。

もしも先祖のなかの誰かが地獄に堕ちて自分を失っていたとしても、子孫の調和ある家庭を目の当たりにすることにより、己自身の不調和を改め、その霊をして昇天させる原動力となるからです。

つまり、親や先祖の霊達に安心していただけるような生き方を示すことを私たちが実践することですね。

子の幸せを思わぬ親はいないはずです。

しかも、その子が親より立派であり、家庭が円満に調和されていれば、親は子に励まされ、その子に恥ない自分になろうとするのが人情ではないでしょうか。

あの世もこの世も、人の心に少しも変わりはありません。

もちろん、なかには例外がありましょう。

生前の心の不調和とその行いによって地獄に堕ちれば文字通り苦界にあえぎます。

類は類をもって集まる喩(たとえ)で、その霊は自分と同じ思想、価値観、考えを持った人と波長が合い助けを求め、いわゆる、憑依作用となって人の体や心(意識)に憑いてしまいます。

邪悪な宗教団体、カルト教団に属している人が、同じ宗教に入信していた故人に憑依される事例があるのはこういう事情があるためです。

すると憑かれたその人は、言動に感情の起伏が強く現れたり、病気をしたり、精神的な疾患に陥ったり、自殺したりする場合もあります。

意外と思われるかもしれませんが、霊的な場として大変なのは精神病院や心療内科、総合病院という側面もあります。

特に精神病院の場合は、看護師さんたち自身が精神疾患に陥っているケースが多々あり、相談にみえる方もありました。

実際に精神科に勤務する看護師さんたちの告白でその実態を知ることにもなったわけです。

それと、本来秘密裏になっている精神科の医師の鬱病発症や自殺者が間々見受けられることも霊的な視点からは無視できない重大な事案であります。

「薬を飲みたくないんだったらもう来なくていいよ」という言葉でショックを受けました。といってうつ病診断をされた方が泣き泣き相談に見えたことがあります。

驕り高ぶらず、医師自身がよほど心の調和を図っていないと、精神疾患者の出入りによって蔓延する未成仏な霊たちに蝕まれていきかねません。

これらの原因は不調和な霊たちの霊波動、及び、憑依による悪影響そのものです。

しかし、その根本は影響を受ける側、憑依される側の心にも同調するだけの原因があるのです。

地上が調和されると、あの世の不調和な霊たちも調和されますから、私たち自身が心穏やか生き方をしなければならない理由はここにあります。

あの世とこの世は、いわば相関関係にあって、個々別々に独立して存在するものではないということ。

先祖の供養というものは、このように、まず個々の家庭が調和されることであり、その前に個人個人が調和されることであり、調和こそ最大の供養ということを大事にしていきたいですね。

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sen

幸せのかたち 2016/7/21

「孤独感が襲ってくると淋しくて、不安で、いてもたってもいられません。どうしたらいいでしょうか?」というお話をいただきました。

孤独感からくる寂しさや不安感という感情は人によって感じ方が違うものです。

通常は一人だと感じたときに寂しさがつのってくるものですしょうが、人によっては複数、大勢の人のなかにいても孤独感を感じて淋しいと思う場合もあるようです。

こうしてみると淋しいと感じることの条件も様々なように、幸せと感じることも人によって様々です。

一人ぼっちではないと実感できるときに感じる幸せ観。

一人で生活していても幸せを感じている人もいます。

幸せはその人の心の状態によっても異なるわけです。

孤独感や不安感があるときは特にそうですが、人は言葉によって支えられたり勇気づけられたりします。

そういうときに感じる安心感や幸せもあります。

「一念三千」

人間の心はどのようにも変化するものだし、自分の心次第で試練や逆境のなかにあっても何時でも幸せだと思えるものです。

心はその状態、持ち方に如何によってどのような世界にも通じるものだし、その境涯にもなれるものだということを表現した言葉が一念三千という言葉です。

三千とはすべての世界に、あらゆる世界に通じるという意味で三千世界という言葉が仏教にはあります。

そういう意味でも、自分は幸せだと思える人ほど人との繋がりや信頼関係が築かれ、良い人間関係が広がるものだし、深くもなるものです。

しかし、これは決して人数の多さではありません。

私自身は友人が多い方ではありませんが、しかし信頼のおける友人ばかりですからありがたいことだと思っています。

勿論、感謝もしてるし、幸せだと思います。

少ない友であっても、それを有り難いなぁと思えることが幸せではないかと思うのです。

人生はいつも出会いがあります。

生涯を通じて多くの人たちとの縁があります。

そのなかで出会って良かった、巡り会えて良かったと思えること、また思ってもらえることがどれほど幸せなことなのか。

生まれた環境や境遇によってその時は周りを呪い自分を呪うこともあるかもしれません。

しかし、やがて時がたち、自分の人生を省みるとき、自分にも持って生まれた幸せがあるのだと悟るときがきます。

その幸せはすべて自分の心の中にあるということを決して忘れてはいけません。

人間、どのような境涯にあっても、気づくことで幸せを実感できるものだからです。

ということは、気付くことが大切なのですね。

逆に不幸なことは喜びを喜びとして感じられないことだろうと思います。

他人にはわからないご苦労もあるでしょうが、よくよく話を聞いてみると、客観的にみて、幸せのなかにいても幸せと気づいていない人もいます。

私の持論ですが、幸せは求めるものではなく、気づくもの。

何の試練もなく、苦労もなければ、幸せを深く感じることや気づくことは少ないでしょうし、喜びも少ないものです。

また、今の小さな幸せを喜べない人、そして「何が嬉しいことか知らない人は、喜びが訪れてもその幸せに気付かない」かもしれませんね。

幸せだから不幸を知らないということはないし、不幸だから幸せを知らないわけでもないはずです。

幸せだけしか知らなければ、何が本当の幸せか分かりません。

「幸せ」だと言えない時があるからこそ、『幸せ』が分かるのではないだろうか。

相反する境涯があるから幸不幸があり、喜びや悲しみを理解することができるのでしょう。

「幸せ」というものを比較の概念で判断する人もいます。

他人との比較、
過去、現在、未来、の比較、物の多寡、金銭の多寡で幸せを計る人、こういった比較の幸せ観は「真の幸せ」からは遠くなります。

そういう意味で言うならば本当の幸せを知らない人は、たとえ幸せが訪れてもその幸せに気づけない。


では、本当の幸せとは何だろうか。

小さな喜びをどれだけ「有り難い」と感じることができるかかもしれませんね。

人一倍恵まれた環境にいながらも、「有り難い」と思えない人もいます。

傍目(はため)に大変なご苦労をされていながらも「有り難い」といって感謝の心と言葉を忘れない人もいます。

この違いは何かというと、やはり心のステージが違うということです。

言い換えれば、「感じ取れる」という魂向上の段階の差ということだと思います。

どのような時も「学ばせていただいている」という謙虚で、前に進むことを忘れない生き方の人をみると、見習うことがたくさんあります。

自分もこう生きたいものだと。

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sen
罪 2016/7/17(日)
「キリスト教に入信したら私の罪は許されるのでしょうか?」と質問してきた人がいました。

この世の律法に反する犯罪をすれば裁きを受けるのは承知のとおりです。

しかし、心に思ったことだけでは法律で裁かれることがありません。

また心の罪は宗教に入信したから許されるというものではないでしょう。

社会のなかで罪を犯した人間が更正してしっかりと立派に生きている姿をみたらあなたは許すのではないだろうか。

同じように、自分が罪を犯したときダメ人間と自暴自棄になるのではなく、心も、体も、言葉も、行動も、しっかりと改めた生き方をするならばその生き方こそが自分が許されたことになるでしょう。

これは律法に反する罪であっても、心にもった罪であっても根本的には軸を同一にするものです。

僧侶のなかには、本来、悪はないと悪の存在を否定し、全ては善であり、悪に見えるものも実は善が悪を装っているに過ぎないと説く人がいますが、はたしてそうだろうか。

人間の魂は本来、神の子として神仏に連なるものだとは思うのですが、悪を為すものがいることは紛れもない事実でもあります。

この世の人生を終えて霊界へ行ったからと言っても、地上の生活と何ら変わるものではありません。

自分の好み、その偏った心の傾向性、執着した思い、その習性、というものをそのまま携えてあの世のいくことになります。

変わるのは肉体を棄てたということだけです。

ですからあの世での生活は、この世で持っていた肉体にかわる霊体をもって生活するということ。

従って、その人のもっている日頃からの思考や価値観、心の癖というものは次元のことなった世界にいっても変わらないんです。

逆に純粋にして高潔なる魂の場合は、この世から離れてあの世にいったときその魂がそのまま光り輝く魂として高い次元の生活をすることになります。

宗教関係の指導者たちは、唯一なる存在を憎み善に背を向け、罪深き魂も、懴悔(ざんげ)一つにて心が清められ天に召されると説きますが、実際はどうだろうか。

きょうこの記事を読んでくださっているあなたも考えてみてください。

短気な性格を持った人間が、一夜にしてその癖、傾向性を、色を塗り替えるが如くに変われるとお考えだろうか。

ペイントで色を重ねて塗り替えれば新たな色に変わりますが、塗り重ねたその下には前の色が隠されたままです。

まして人間の心は色を塗り替えるような簡単なものではありません。

魂の成長は一日一日、一刻一々の生き方によってのみ築かれていきます。

すぐに剥がれ落ちる上塗りであってはならないでしょう。

鋼(はがね)をつくるには鉄に熱を加えて叩き、冷まし、何度もその繰り返す工程が必要なように、魂の成長も日々の勇気と弛みない努力が為されなければ向上しないということです。

本当に成長したかどうかは、人を許せるようになったかどうか、自分にとって不都合なことが発生したときでも冷静に寛大な心で行動できるかどうかでわかります。

煩悩に負けた心はその奴隷となるでしょう。

煩悩とは自我心のことです。

そうなったが最期、純なるもの聖なるものを避け、他人を裁き、いつも心がざわつき、安らぐことなど無く、死後もかつての地上の苦悩の様を演ずることになるが、これは魂が我というスモッグ曇りきっているが故であります。

罪というのは身体を以って為した悪だけが罪というのではなく、心に思った不満、愚痴、怒り、妬み、そねみ、誹謗、中傷、嘘、欺瞞(ぎまん)、傲慢、驕り、高ぶり、これらも紛れもなく心の罪といえるでしょう。

自我心の強い人間ほど善に対抗し、それを妨げんとする言動をするものです。

人間、心を調えることほど難しいものはないのかもしれませんね。
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sen
akusyu

ちょっとスピリチュアルなお話し。2016/7/10(日)

人間の心の世界は大宇宙のごとく無限に広い!

私たちの思ったことは、次元の違った世界にも自由自在に通じていきます。

といってもピンとこないかもしれませんね。

でもこれは事実です。

それは思った内容、善悪という程度の相違によってそれに比例した世界につながっていきます。

心は送信機であり受信機でもあります。

比例した世界とは、非常に調和されたユートピアに通じるか、反対に低次で不調和な奈落の底ともいえる地獄のような世界に通じるかということです。

人間の想念は時間的な制約を超え、空間的距離的な制約を超えて瞬時に相手にも、場所にも届きますし、それがまた現象となって顕われるものです。


このことはただ単に知識として述べているのではなく、実際に経験してきたことや起こったことを話しています。

こういった現象はすべてが人間の心から発生する現象です。

ところが、人間の想いそのものについては立法がありませんから全くの自由です。

この社会には立法があって罪を犯せば罰せられますが、心の想いについては規制がありませんから罰することができないわけです。

ただ、こういうことを思えばこう苦しむのですよ、こういうことを思えばいい結果が出るのですよ、といような教えや働きはあるのですが、しかし、この思うということについては全くの制約がありません。


つまり、社会生活に立法があるようには、心の世界には立法がないということですね。

ここに問題が発生してきます。

人間の心はバランスを崩すと苦しみとなるようにできています。

ひとつのことに対して悩み、不安を感じ、恐れをいだくことで心が辛くなるでしょう。

それが長じてくると肉体的な不健康状態にまでなる場合もすくなくありません。

例えば、精神的疾患者の根本的原因は、自分の思っていることの歪み、偏り、正しい基準を失った生活行為、拘り、頑なな心、こういった心の使い方から発生してきます。

それは、本来の調和された人間の心の状態から離れた偽りの我です。


自分は正しい生き方をしてきたとはいっても、実際には非常に言葉にも行動にも不調和なところがあるのにそのことに気づけていない場合があります。

そういった意味でも、人間は他人をみて批判はできますが、以外と自分自身の本質をみることができていないことが多いものです。

ここで偽りの我について述べておきましょう。

私たちの心の中には偽我と善我というものがあります。

どんな状態でも、人間は自分に絶対に嘘のつけないところの善我があります。

良心といってもよいでしょう。

他人に対して一時的に偽ることができても自分の心まで偽ることはできないわけです。


自分では良くないことだと分かってはいても自我心が強いために我を通してしまうことはよくあることです。

しかし、善なる心の我こそが本当の人間の心であり、この心こそ神の子の証といえるでしょう。

これはこの世の人間だけのことではなく、亡くなって次元の低い地獄に落ちても同じであって、地獄の霊達も必ず心の奥底には善我を持っています。

ところが、彼らは自分さえよければいいという自己保存の固りであるがゆえに、地上の生活よりもちょっと厳しい地獄の世界で暮らさざるを得ません。

何故なら、あの世はすべて心のステージの違いによって生活する段階、空間世界が違うという仕組みになっているからです。

この世が華よ!
死んでからなんて関係ないよ!

しかし、人間死んでからでは遅すぎます。


いまをどれだけ調和して生きているかがすべてです。

偽我心のあるときの人間は、相手が迷惑に思っているのにそれを無理押しして自己都合の行動をしても自分は正しいと言ったりします。

これは明らかに不調和な生き方といえるでしょう。

偽我とはこうした生き方のことであり心の不調和をいいます。

人間の心に善悪があるように、社会にも善悪があるように、そして白黒があるように、正邪があるように、相対的な心をもって暮らすのが人間であるとみることもできます。

心に感謝以って働く人がいる一方で、自分の義務や責任を怠る人もいるでしょう。

何事も謙虚な姿勢で学ぶ人がいる一方で、傲慢に振る舞い少しばかりの豊かさ故に驕り高ぶる人もいます。


執着せずに今日に生きる人がいる一方で、昨日のこと、過去の出来事に心奪われて苦しみ、悲しむ人がいます。

自分を律して調和を忘れず生きる人がいる一方で、何かと自分以外の人を責めたり、相手のせいにして生きる人もいます。

他に対して愛深き人がいる一方で、いつも他に愛を求めて生きる人もいます。和合、協調を心がけて生きる人もいれば、争いの種を蒔く者もいます。

これらはすべて己の心から発するもので、それがそのまま自分の生き方となり結果となり、現象となります。

やはり、人間は自分の我を通すような生き方をせずに、愛深き生き方をしたいものだと思います。

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sen

gazou

ちょっとした心の切り替えで人生は変わる 2016/7/2

「どっちでもいいこと」に心を向けすぎない

意外と誰もが、余計な選択に時間をかけてしまっている場合があります。

例えば、日常の中でどちらを選ぶべきか迷った時に、まず「そもそも迷う必要があるほどのことなのか」となると、それほど「大事な選択」というのは意外と少ないものです。

どっちでもいいことで迷わずに、そして拘らずに過ごせればどれほど楽な生活ができることか。

そういう習慣ができていればこそいざ大事な選択をすべきときに冷静に、且つ適切な判断ができると思うのです。

周りの人に依存しない。

勿論、人を信用してはならない、という意味ではありませんが、人生を生き切る究極的な意味では、自分が信用できるのは最後のところでは自分だろうと思います。

依存心が強い状態のときほど自分の意に反するような結果がでてくると失望したり、あるいは絶望したり、人によっては人間不信に陥る場合もあります。

それがたとえ自分に非がなくても結果が自分の期待通りではなかったことに対する執着や、拘りがあればそこで自分が苦しむことになります。

こうしてみると何かに依存していて楽だなあと思ったとしても、幸せだなあとおもっていてもそれは結局長続きしません。

依存ではなく「共存」できるよう、自分もしっかりアイデンティティー(主体性)を持つ、生き方を日頃から意識していかなければなりません。

そして、周りに期待しない、というのは一見辛いことのようですが、実は自由で楽だという側面があります。

人間は本来、一人で生まれ、一人で死んでいきます。

どれほど親しい関係にあろうとも自分の主体性を忘れないで共存する生き方、協調する生き方のほうが真の意味で自立するということではないでしょうか。

兄弟姉妹でも争いはあります。

親子でも争いはあります。

血のつながったもの同士の争いがあります。

理由は様々あるでしょう。

その理由の一端には「依存心」から発生する自己都合ということもあるのです。

過剰な期待が寂しさや怒りにまで変化することもあります。

仲が深まれば深まるほど、相手に期待や依存するのではなく、感謝していきたいですね。


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sen
賢い人&愚かな人 
2016/6/25 (土)

人は生涯を通じて人と関わりながら生きていくことになりますが、「俺は人の世話にはならない」という言葉を言われたという方がいました。

そうとう意固地になっているか、嫌なことでも経験しているのか、あるいは人間不信に陥っているのでしょうか。

人の世話にはならないとは言っても、直接的にも間接的にも人様のお世話にならないということはありえません。

そもそも自分が死んだらその死体を埋葬してくれる人たちのお世話にならなくてはなりません。

どんなに片意地を張ったって最後の最後にお世話にならないわけにはいきません。

それでなくたって日ごろの生活でも人様がつくった食材をいただいて今の体をいじできているわけだし、着るものにしたって誰かがつくったものを買って着ています。

住まいにしたって誰かが作ってくれたものです。

こうしてみると衣食住すべてのところで誰かのおかげ様ですね。

「おれが自分のお金で買ってるんだからいただいたものではないし、人の世話になんかなっていない」という考えがあるとすればこれはもうまことに偏狭な心でしかない。

お金だって自分が働いたものに間違いありませんが、職場があるから働けるし、職場でも誰かと関わりあいながら働けているはずです。

こうして突き詰めていきますと人間はお互いが助けられていることに気づかされます。決して自分一人での存在というのはありませんね。

「嫌な人」と思っている人のお世話にもなっていることになります。

やはり心を広く、懐を深くできるように日ごろの気づきは大切にしていきたい。愚かな人は、ただ騒がしく、むだ口をたたくが、賢い人は、どのように答えたらいいかを考えます。

愚かな人は、感情的で良くない言葉を吐き出します。

賢い人は、正しい知恵をもって行うが、愚かな人は、批判や妬みが好き。

賢い人は、優しさや愛をもって接するが、愚かな人は、憎しみや争いの元となる言動をします。

賢い人は、隣人を生かし助けようとするが、愚かな人は、隣人を滅ぼそうとします。

賢い人は、少しの野菜でも幸せを感じる心と術をもっているが、愚かな人は、たらふく肉を食べても、満足せず日ごろから不満をいう。

賢い人は、知恵をもって行動するが、愚かな人は、自分の愚かさにさえ気づかずに行動する。

賢い人は謙虚さをもっているが、愚かな人は、怒りやすく自信過剰で自己主張が強い。

賢い人の心は、穏やかですが、愚かな人の心は激しい。

賢い人は、人の意見や注意を聞きけるが、愚かな人は、忠告やマナー、規律を無視する。

やはり和やかに暮らしたいですね。



ajisai


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sen

人材 2016/6/18
主体性と自主性いう言葉があります。

この「自主性」は、やるべき事を人に言われる前にやるということ。
ですが、その問題、そのことに対して自分で物事を考え、判断するという習慣はついてこない状態をいうようです。

この自主性に類似するような言葉で
「主体性」という言葉があります。

「主体性」は、やるべきことを自ら進んでやるだけにとどまらず、場合によっては今までやってきたことが効果的では無いからやめると判断することもするし、状況判断によっては別な対処もできるという選択と判断ができることを言うようです。

非常に簡単に言ってしまえば、この
2つの言葉の大きな違いは自分の頭で物事を考えるか、考えないかにあり、且つ、応用がきくかどうかということでしょうか。

自主性よりも主体性の方がより一歩踏み込んだ行動を示すものですが、そこには責任も伴ってくることもわかります。

私の院においてたくさんの人材を育てて世に送り出してきましたが、自主性をもって仕事をできる人は優秀な人材です。

しかし、更に主体性をもって仕事をする人は安心して仕事を任せられる人材です。


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つもりの人生 2016/6/12

あるつもりでもないのがお金、そしてないつもりでもあるのが欲だろうと思います。

古来より、人間は業が深いともいわれますが、浅いつもりでも深いのがこの欲なのでしょう。

更に、自分はあると思っていますが、実際はそれほどないのが常識や分別。

それだけに自分を省みる習慣は忘れないようにしたい。

こんな自分ですから、人の落ち度は笑ってはならない。

そして持ってはならないものは妬み。

持たなくてはならないものそれは寛容と人情。

忘れてはならないもの、それは受けた恩と感謝。

忘れなくてはならないもの。それは人にしてやったこと。

自分はこういうことがどれだけできているだろうか。

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roujin

老い方
 2016/6/4
年をとったらでしゃばらず、にくまれ口に、泣き言に、人のかげ口、愚痴いわず、人のことは褒めて、聞かれたことなら教えても、余計なお世話にならぬよう、知ってることでも知らんぷり。

無理に丸くなる必要もないが、さりとて、とがって生きることでもない。

人生を長くやってると有難味が本当にわかってくる。

だからこそ意識せずとも自然に「ありがとう」の言葉がでます。

地獄の沙汰も金次第というが、総じて世の中金がなくてはできないこともあります。

しかし、分不相応なお金の欲は捨てたほうが楽だ。

それは自分のいまある境涯において足ることを知るということ。

いくらお金を持っていても死んだら持っていけません。

お金で徳を積むということではないが、あの人はいい人だったといわれるように、生きているうちに人のためにバラ撒いてたくさんの徳を積むのです。

勿論、ばら撒くお金があればの話ですよ。

後期高齢者の人間にとっては、私らの時代は過ぎたと言いたいところですが、どっこい、仕事でも必要とされていますし、まだまだ若い人たちから頼りにされている今は引退はできない。

しかし、いくら頑張り力んでみたって身体がいうことをきいてくれないあたりは体力の限界が身に染みる。

あんたは偉い、私はあかん。

そんな気持ちで若い人をたてて老いていきたいものです。

しかし、いくつになっても男は男を捨てちゃいかんでしょ。

たとえ白髪になっても女は女を磨くことですよ。

外見だけが魅力なのではなく、内面の充実が表面に出ますね。

内緒話ですけど、見えないところに下着などのオシャレをすると心が熱くなり若返ります。

特に女性はそうじゃないかな。

身だしなみ、着る楽しみ、食べる楽しみ、出かける楽しみ大いに結構。

心は年をとらないものですよ。


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20165/28
hana

育む

何事もそうですが一生懸命になりすぎて、かえって事態を複雑にしてしまうことがあるように、子育ても一人の子供を育てるために目が行き過ぎて過干渉になり、かえって子供の心が抑圧されていたという事例があります。

口を開けばいつも正論ばかりをいう親御さんの言葉に辟易(へきえき・嫌気がさすこと)していたお子さんがいた。

そうかと思えば、「どうしてできないのよ!」「ダメな子ね」「違うでしょ!」

このように批判と否定を受けて育った子はやがては他を非難ばかりするようになっていました。

敵意に満ちた中で育った子は誰とでも戦いをするようになります。

妬みを受けて育った子は悪事をするようになりがち。

心が寛大な環境下で育った子は辛抱強くなります。

励ましを受けて育った子は自分に自信を持てるようになります。

褒められて育った子は他に対しても感謝の心を持つようになります。

公明正大の中で育った子は人生に大切な仁義という人間同士の関わりの大切さを忘れません。

思いやりの中で育った子は、愛と慈しみを心に宿し、信仰心を持ちます。

認められて育った子は自分を大事にし、他人をも大事にします。

仲間の愛の中で育った子はすべての世界に愛を見つけ、すべての世界に愛を示していきます。

この世で一番難しいこと。

それは「育てる」ということでしょうか。


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sen

自己を知る 2016/5/21
私が心がけていること、シンプルですがそれは健康の元は腹八分の教えです。

食べすぎはお腹が苦しいばかりではなく、消化器系統への負担にもなり内臓の健康を損ねるし、肥満の原因にもなります。

これは食べ物を摂るときの話ですが、すべてに応用ができる心構えだと受け止めています。

すべてのことに対していえることですが、自分の欲を満たすために我がまま、気ままを尽くしても、心の中は空虚という穴だらけです。

限りない欲望は満たされることがありません。

味が濃いものを食べ、満腹になるまで食いあさっても次から次とグルメ三昧を繰り返した結果、糖尿病になるまで気づけない欲望は餓鬼そのもの。

病気になって味わう痛み辛さに貴賤上下の差別はありません。

病気をすれば誰もが痛み苦しみを味わいますが、そうなる前に日ごろから足ることを知った生活をしたいもの!

人間の心には善もあり、悪もあります。

本来は人間の心に悪はない、とする教えもあります。

解ります。

しかし、現実には邪悪な心が顔をだすのも人間の一面ですからきれいごとばかりでは済まされない。

十も百も、千も、万も一から書き出すように、物事はすべて自分の心から始まります。

一を知る人は百もわかるでしょう。

自分の心を知る人は他人の心も思いやれる。


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tabidati
旅立ち 
2016/5/15
骨壺には値段によって上中下とあって、なかには高価なものもあるらしいけど、でも入るお骨に上下があるわけじゃない。

最近は墓石にお金をかけないようにする風潮がでてきましたけどとてもいいこと。

自然葬に合葬に、家族葬、密葬、生前葬まである。

お墓だって豪華絢爛に作ってもお骨には関係ないこと。

お葬式にお金をかけてどれだけ立派な祭壇にしようが、大勢の坊さんを呼んでも、お経を唱えてもらっても、死んだ本人には意味を成さないこと。

日ごろ信仰心のかけらもない自分、お経の何たるかを学んでいない自分が死んで戒名を付けられても、あの世に行って戒名で呼ばれても返事のしようがない。

それに生前にさんざん人様に迷惑をかけたり、人に対して冷たかったり、自己中だった人間が心に垢をいっぱいつけて死んで何が立派な葬式だよ。

そんなことで成仏できるほどあの世もこの世も甘いものじゃない。

俺は日本太郎だ。


お経を唱えなくても、娑婆にいるときに心は調えてあるよ!

葬式も戒名もいらない!

家族と親しい友人に送ってもらえたら申し分ない。

俺は死んでいない!

旅立ちをしただけだ!

また生まれ変わってくるまでちょっと不在にするだけだよ!

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sen

生きる気力 2016/5/10

悩みや挫折のために、あるいは体調不良のために、いろんな理由で生きる気力が萎えてくることってあると思います。

誰でも気持ちが萎えているときにやたらと元気を出してというだけの励ましや説教を受けたとしてもあまり前向きになれないどころか、かえって苦しく思うことがあるのではないだろうか。

さりとて辛いことから逃げることもまた問題解決とならないばかりか、その状態や新たな問題が発生する可能性さえもあります。

今というこの時間は戻ってきません。

生きていく中では避けては通れない場面もあります。

この避けては通れない状況は自らの想いや行動で乗り越えていかなければならないこともあります。

病気の問題もそうですが、心の感情には波があるもので、今は落ち込んでいてもいつか必ずまた心地よい感情がやってきます。

問題が目の前にあるときは憂うつでやり場がなくても、少しの辛抱と努力によって、一番つらい時期を乗り越えますと、やがては先には一筋の光が見えてきます。

辛い時期にはすべてを諦めていたことであっても、あとになればあのときの自分はなんて恐ろしいことを考えていたのだろう、あのときあきらめなくて良かったと語るものです。

体調不良の時というのは、周りの事や、先のことや人生の重大事を決定するには状態がふさわしくありません。

重大な決定は体調が回復してからゆっくり冷静に考えても遅くありません。

自分の生き死に関することなどは、なおさら勿論のことですし、人生の重大な決定事項についてはなおさらのことです。

慌てる必要はなにもありません。

むしろこういうときこそ心静かに落ち着くことが大切です。

目先の出来事にうろたえますと大事なことを見失ってしまいます。

癒されない心の傷はないと思いますし、人は幸せになれると信じています。

そして幸せは心で気づくものであり、自分が決めるもの。

時間がかかるとしても、きっとそうなると信じていきたいものです。

生きる意欲は回復します。

今は、苦しくて、身の置き場がないとしても、苦しくて、生きる意欲がないとしても、今は、苦しくて休みたいと感じていても。

休みたいという思いは心身からのサインです。

良くなるために今は休息が必要だと心と体が教えてくれています。

休息は大切です。

『心を病まない生き方』はあります。

また
『病気にならない生き方』は難しいけど『なりにくい生き方』はあります。

心も、体も無理をせず調えて生きることかと思います。

そもそも人間は生きるということだけで苦しみがつきまとうものでしょう。

大切なことは、どういう受け止め方をして生きるかで違ってくるものだということ。

難しいことではありますが、ここが要です。

物事に対して必ずしも「ベスト」選択や判断である必要もなく、様々な選択肢、判断がある「ベター」でいいのではないかと思います。

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sen

心は創造の達人 2016/4/30

前回の投稿で「禍福は糾える縄の如し」ということの意味についても触れさせていただきました。

人生には、幸せな運命もあれば、禍や不幸や様々なトラブルもやってきます。

運命とはいってもそれは勝手にやってくるものではなく、自分が為してきたことの延長上にある結果と受け止めたいところです。

ナポレオン・ヒルが言った『思考は現実化する』では人間は自分が考えているような人間になるとあります。

イギリスの謎の哲学者ジェームズ・アレンの大ベストセラー『原因と結果の法則』には、心は創造の達人ですとあります。

これらは人間のもつ可能性を表現した言葉であると同時に、他人には責任転嫁できない自己責任があると理解することも大切ではないかと思うのですがどうでしょうか。

人間には誰にも心があり、その心によって思いという力を用いて自分の人生を形づくり、そのなかで様々な喜びやまた悲しみを自分で生み出しています。

この生み出すものが心であり、口(言葉)であり、行動です。

で思い。
で色々としゃべり。
で色々と行う。

ということは、思いと、言葉と、行動という一連の働きこそ自分の運命・人生を創っていくということがわかります。

仏教の教えにもあります「身口意・しんくい」と。

そしてこの心、口、体の三つの中でも、最も重要なのがです。

なぜなら、口や体の行いは、心が元になっているからです。

人間は心が思わないことを言ったりしないし、心が思わないことをやったりもしないでしょう。

口が悪いことを言ったら、それは心にもないことを言ったのではなく、自分の心が命じたこと。

体が悪いことをしたら、それはやはり心が命じたからです。

その意味で言葉や体より心を重要視するのは大切なことです。

未来の自分を知らんと欲すれば、現在の自分を見よです。

実り多き人生を望む自分が今、何をしているのか。

「未来の運命」をより良いものにしたければ、現在の自分の思いと姿を見つめたいところです。

本当の自分の心はどんな姿をしているのか。

「自分のことは自分が一番よく知っている」と、みんな思いがちです。
ところが、本当は、自分ほどよくわからないものはありません。

例えば、お互いに問題も無くいい関係でいるときは自分も相手もいい人でいられますが、何かの都合で自分に不都合が生じた場合に相手に不満をぶつたり、言葉で攻撃をしたりすることもあるでしょう。

しかし、相手を責めるような人に限って感情的になりやすい性質を潜在している場合があるものです。

ギリシャのデルフォイの神殿には、
2000年以上昔から、「汝自身を知れ」という格言が刻まれているとされています。

人間は古来よりそれほど、自分自身がわからないものなのでしょう。

日本でも、ことわざに
「なくて七癖」と言われますが、どんなに癖のない人でも七つの癖がある。といいます。

では、「自分の癖はどんなくせ?」と聞かれたら、すぐ答えられるでしょうか。

おそらく即答できない人が多いかもしれません。
でも他人の癖ならいくらでも並べられます。

私たちは、人のことはわかりますが、自分についてはほとんど無知だといっても過言ではないでしょう。

これは他人のことに関しては客観的な視点でみるからわかるのであって、自分自身を客観的にみるという習慣がないからでもあります。

自分自身がわからなければ、私たちは本当の意味での向上も進歩もありませんから、気づきもないでしょうし、真の意味での幸せにも気付けないでしょう。

真の意味での幸せとは、今の状況が不幸だと思っている人でも実は大切なことに気づけば実際は幸せなところがあるという気づきです。

人間生きている以上は幸福にならなければなりませんが、そのためにも先ずは、幸せの条件をそろえるのではなく、真実の自己を知ることが非常に重要なことだと思うのです。

1000年前の源信和尚は、
『よもすがら仏の道に入りぬれば 我が心にぞ たずねいりぬる』という歌をよんでいます。

夜を徹して一筋に仏の教えを学べば自分の心にたどり着くということですが、最後は自分の心の実相を知らされてくるのです。
かつてゴーダマ・シッダルタが悟られて釈迦如来となられたように。

では、真実の自分の姿をどのように知ればいいのでしょうか。

世の中には、自分の心をうつす鏡が3枚あると言われます。

他人という鏡
自分という鏡
覚者という鏡の3枚です。

では、これらは一体どんな鏡で、それぞれ、どんな自分の姿が映し出されているのだろうか。

1・他人という鏡は
社会生活の中で、相手の言動に自分の言動が現れてくるというとらえ方。

つまり、人間はお互いが関わりの中で影響し合っているからこそ自分の行動いかんによっては相手の自分に対する対応が変わってくるということでしょう。

2・自分という鏡は
自分の心の姿と理解したい。
つまり、自分の心次第で人間関係も、社会生活も、人生も変わっていくということかと思います。

3・覚者という鏡は
心の自由をどれだけ得ているかということ。
心の自由とは、人生における喜怒哀楽によって執着しない心のことであり、拘りを持たない心、偏りのない心の状態をいいます。

「拘り」という言葉を近年は良い意味に使う習慣もあるようですが、本来の拘りという言葉の意味は「気にしなくてもいいことを気にする・些細なことを気にして心を不自由にしている」という解釈が正しいかと思います。

「こだわりの一品」などという物づくりの場合に使われるこだわりは本来なら、「手塩にかけて・心を込めて・精一杯」というような表現であったほうが良いのではと思います。

ともあれ、鏡を心に置き換えてみますと鏡という不思議な働きの実相が観えてきます。

他人は自分を映す鏡でありますが、同時に自分の想いが言葉になり、行動になり、他人の心に作用していきます。

ということは、自分の鏡、つまり心の在り方が何をおいても大切なことがご理解いただけるかと思います。

「物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。

荷車をひく牛に車輪がついていくように。」法句経より引用



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sen

tikyu

偉大な愛というエネルギー 
2016/4/16

先ずは、熊本地震によって亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々へ心からのお見舞いを申し上げます。

五年前の三陸津波によって多くの犠牲者が出たときも、被災しながらも「やはり海しかない」といって再び海に帰って行って仕事に励んでおられる方々もいました。

自分たちが生まれ育った土地への愛着は、災害によって大きな損失を被っても消えるものではないのでしょう。

今回の熊本地震においては避難を余儀なくされている多くの人たちがいます。

不安と恐怖とライフラインの不足による不便な生活を強いられています。

一刻も早く復旧できて人々の生活が落ち着かれるようにと願わずにはいられません。

自然というものは時には猛威を振るって災害となりますが、その反面、人類の科学や化学が及ばないほどの多大な恵みを与え、人類はその恩寵(おんちょう)にあずかっています。

そういった恵みがあるからこそ人間は自然に対して感謝の念をもって生きるのだと思います。

「禍福は糾える縄の如し・かふくはあざなえるなわのごとし」という言葉が示すように、災いと福は交互にくるものだということでしょうか。

つまり、幸せと不幸は表裏一体のものであって、別物ではないということなのでしょう。

さてきょうは、人間の愛と自然界の姿に潜む愛について述べてみたいと思います。

物は形や大きさ、そして重さを測ることができます。

地上においては距離を測ることもできます。

しかし、この世には計り知れないことがあります。

人間のもつ現代の科学や医学をもってしても解明しきれないもの。
それは心です。

そして、宇宙大自然界の偉大な力であり、その原動力となっているものが何か。

人間の心の源泉である愛は無限大であり、大きさを測ることができません。

重さを測ることもできない。

どれほど優れた機械器具をもってしても分析することはできません。

心は形としては見えませんが、それでも心の中の愛は厳然として存在しています。

人類愛は、人間の心を人間たらしめる唯一のエネルギーだと思うのです。

人間の心の内にある愛はどこからうまれたのだろうか。

私たちの内にある愛も、大自然界を機能させる原動力も愛の力だと私は信じています。

もう一歩踏み込んで言わせてもらえば、愛あればこそ全大宇宙が存在すると申し上げたい。

この場合の愛というのは、自然界における営みの原点ともいえるエネルギーのことであり、唯一絶対的な普遍のエネルギーとでもいいましょうか。

普遍とはすべてに及ぶほどの広く偏りのないエネルギーということです。

その原点は愛という意識だと思います。

宇宙がその宿命を成し遂げ、全存在がそれぞれの宿命を成し遂げていくその背後には、この意識である愛の力が存在すると信じるところです。

愛は、生命活動の原動力であり、すべての障壁を克服していくのも愛の力。

よく人間は神の子といいます。

であるならば神の子の証でもある愛をより深いものにするために、自分の心から少しでも「不満・愚痴・怒り」の三毒というエゴを減らすべく、物事を正しく見ること、正しく思うこと、正しく語ることを基本とした生活を忘れないで生きてゆきたいもの。

私たちが自分の成長を願い、自己の内面を見つめるとき。
昼のあとには夜が訪れるように。

春のあとには夏が訪れるように。

種子を蒔(ま)けば芽が出るように。

苦労のあとの大きな喜びを実感するように。

心は着実に眼を開き、一歩一歩その存在意義のなかで成就に向けてゆっくりと階段を登ります。

日常の煩雑(はんざつ)な生活の渦中にあって、時にはわずかな時間を割いて心の静寂の中に目を向け、己れが存在する原動力であるところの魂がチャージできる機会を与えてみてはどうだろうか。

心にある不安や恐れを拭い去るためにも一時の瞑目は大切であり必要なことです。

宇宙は無限・無窮(むきゅう)の愛と慈悲のエネルギーによって存在しております。

しかし、こういう受け止め方、解釈、理解ということになると、地上人間の圧倒的多数がそのごくごくわずかしか感識していないでしょう。

否定する人さえおります。

それは知識を得れば納得するというものではなく、受け入れる気根(心のステージ)という条件が整わないからです。

ですから私たち人間は、その宇宙を司る意識による恩寵(おんちょう)を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく調える方法を学び、且つ、実践しなければと思います。

それには信念と信頼と穏やかさと落着きを身につけることから始めたい。

そうしたものによって揃ってくる条件によって、無限のエネルギーから莫大な力が心の内に遍満して豊かさを増すことができる。

それが愛の出発点である唯一なるものの摂理であり仕組みだと感識するものです。

信じて受け入れ、体と心で呼吸する能力に応じて、エネルギーが配給されるということ。

決して単なる呼吸のことではありません。

魂の息吹です。

私たちの心の受容力が増せば、それだけエネルギーも増します。

悲哀の念が消えるに従って、また乱れた感情や、反発的な怒りが消えることによって、魂を取りまいていた想念帯の暗雲が晴れ、静かに輝く陽光がふんだんに差し込み、心が満たされるでしょう。

宇宙に様々な存在を与えたのは唯一なるものの愛です。

宇宙が存在し続けるのも、この愛があればこそです。

全宇宙を司(つかさど)り、全存在を支配しているのもその愛ゆえにです。

その愛の波長に触れた者が、自分の愛する者だけでなく、血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差しのべんとする同胞愛に、そして人類愛に燃えます。

愛は自分より不幸な者へ向けて只自然に手を差しのべさせるでしょう。

しかし、愛を拒む人もいます。

ゆえに、求められなければ与えられない愛もあります。

全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、より一層の進歩を求めて、人間の一人ひとりを通して地上に流れ込んでいます。

そして、いつの日か、全宇宙が唯一なるものの愛によって温かく包まれ、争いのない地上とるなることを願う。

好感を覚える人を愛するのは容易いことです。

しかし、そこには徳性も神聖さもあるとは言い難い。

好感のもてない人を愛することの難しさ。

これが厳しい現実であります。

しかし、これが昇華されるほどに魂の霊格の高さが言動にもにじみでてきます。

内面の美しさがその人のかもし出す光であり豊かな魅力となります。

自分が気にいらない人のために手を差しのべること、これは容易なことではないし、遥かに難しいことです。

しかし、私たちは常に理想を目標としなければならない。

他人に出来にくいことをする、これが奉仕の奉仕たる所以だからでしょう。

傲慢や驕りではなく、ただ単に可哀そうにと思える人に優しくする、これは別に難しいことではありません。

気心の合った人に同情する、これも難しいことではありません。
が、敵を愛する、これは実に難しいことです。

しかし、本来は敵というものはないはずです。

最高の徳といわれたら、それは利他愛だと思います。

愛すべきだから愛する、愛こそ唯一なるものの意識である摂理を成就する。

そして、そのことを知るが故に愛する。

これです。

自分にとって都合のいい人に愛想をふりまく。

これも容易いこと。

自分の利益のために愛想をふりまくことも容易いこと。

愛らしい顔をした子供たちを治療してあげる、これは容易いことです。

しかし、年老いたしわだらけの老人や、奇形の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心がけではできないでしょうし、それが奉仕の心です。

真の愛には大小優劣の判断が存在しません。

愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。

例えば、すべての生命体は太陽のエネルギーによって生かされていますが、宇宙の大意識は無限なる愛であり、自己のために何も求めません。

私たちは幼いわが子に愛を求めるだろうか。

代償を求めるだろうか。

しかし、年頃になった子供に対して「してやったのに」と言葉を吐き捨てる親もいます。

成長したいという思いを忘れずに日々生活をしている人間は、進化向上の階段を登るにしたがって己のために何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高いステージの世界に辿り着きます。

その過程には孤独があります。

その孤独は寂しい感情もありますが、孤独は自分を成長させてくれる通過点でもあります。

上のステージに行くほど孤独との戦いになります。

愛は、ただ施すのみの世界。

願わくば、地上人類の世界がみな是非そうあればと願うものです。

学問のある人ということを聞きます。

それは、本を読んで多くのことを知識として得ている人のことでしょう。

教養のある人ということを聞きます。

それは、その時代の社会のなかにおいてに最も普及している知識やマナーを心得ている人のことでしょう。

徳のある人ということを聞きます。

それは、自分の人生の目的や意義を理解し、人に施したことは忘れ、人から受けた施しを忘れない人のことでしょう。

いつも訪問していただいてありがとうございます。観童

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sen

 


gazou


運命 2016/3/31
なにげに「運命」という言葉を使ったり聞いたりすることがあります。

もし、「運命」という言葉によって自分の人生が決まっているのであれば努力することの意味もなく、必要もなく、また無駄なこともあるかもしれません。

しかし、実際には誰もがその都度、その場面において判断をし、選択をし、行動に移して生きてきたと思うのです。

そういう過程において出会いや別れがあり、人生の機微もあじわいながら心豊かににもなり、辛い思いをすることによって逆に心貧しくもなったりすることもあるでしょう。

こういった様々な流れこそが「運命」という言葉によって表現されているのではないだろうか。

流れは変えることができます。

否、流れは変わってこそ流れであり、それは自然界の事象をみれば語らずとも示しています。

人生という流れが変わらないとすれば、それは人間の意思によってそのようにしているだけではないだろうか。

だとすればそれは運命を好転させる自然な生き方にはなっていないということもいえるように思うのです。

心が自然の流れに沿うような生き方をできたらどれほど素敵な日々が過ごせるだろうか。

人間が言うところの「幸運」も「不運」も、それは後からいえることでしょう。

大切なことは、自分が良かれと思うことを勇気を持って一歩を踏み出すことだと思います。

運命に偶然はないと聞きますが正にその通りで、誰もが運命と思えることに出会ったとき、それも実は自分がこれまで為してきたことの結果ゆえのこと。

運命をいいものにしていくためにも、現実を超えていくためにも自分を創造していくことが大切かと思います。

運命は迎えるものではなく、自らが前に歩を進めることだとではないだろうか。

視線を大空に向けてみると、
今という時間を笑顔でいたいと思う。

生きていたらどんなときもある。

辛くて淋しいとき、
涙があふれて切ないとき、
きょうが思うようにならなくても、

明日に希望をつなげて生きたい。

誰かのためにもいいけど、
自分のために生きたら、
それが誰かのためになるかもしれないと。

私は大空を自由に飛び回る鳥ではないが、そのような心でいつも飛んでいたい。

希望を捨てずに。

風をうけて大空高く、
ときには低く。

ときには地上に降りてやすみながら。


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sen

kenkou
健康の基本と呼吸の恩恵 
2016年3月22日
観身堂に来院される方々のなかには、体の不調(腰痛 片頭痛 肩こり ぎっくり腰 スポーツ障害 その他)でおいでになる方がたくさんおられます。

その一方で、医学的には心身症と言われているような(動悸、息切れ、倦怠感、異常発汗、寝汗、パニック障害、過呼吸、過敏性腸症候群、胃潰瘍、神経性胃炎、神経性嘔吐、狭心症、月経不順、高血圧、不整脈、緊張性頭痛、慢性疼痛、間接リュウマチ、円形脱毛症、その他)様々な心理社会的な因子が密接に関係することで発症して来院される方々もいらっしゃいます。

心身症は、その人の体の機能的な問題と器質的なところが根底にあり、そこにその人のもっている精神性なども影響しているところもあるように思います。

心身症になりやすい人の性格傾向として、自分の感情を正しく認知していないことやコントロールできていないことも影響しています。

こういう場合、不満や不安などの感情を意識(心)で認識、コントロールできない分だけ身体に対して様々な症状となって現れてくるメカニズムが考えられています。

ここまでは解っているのですが、現代医学ではこういった症状に対してすぐに投薬治療を優先させているのですが、ここにもそれだけでは改善できない現実があります。

ですからもっと根本的な対処していく必要があるという考えから、観身堂では整体を通じて根本的なアプローチ(骨格バランス・自律神経系のチェック)をして施術を行っています。

特に頸部は、脳と胴体をつなぐすべての神経系統のすべてが通過しているターミナルポイントでもあり非常に重要な部分と位置付けて施術します。

併せて精神的な部分でもカウンセリングを行ってきました。

当院のスタッフは高度な指導を受けており、的確なアドバイスもできるように教育しております。

人間の体は、その人の精神性が体現されるものであるということは否定できないところではないでしょうか。


例えば「自己主張が強く攻撃的な性格の人は循環器系(心臓)の疾患になりやすい」など、その人のパーソナリティ(人間性)と症状が表れる身体部位が関連するという説もあるように、これは的を得た説かと思います。

今回は自律神経と心について述べてみたいと思います。

先ず、健康は「快食、快眠、快便」からとよく言われていますが、私たちの体は起きていても、眠っていても内臓や体の全器官が休みなく働いてくれていることを改めて認識しておきたいところです。

神経は下記のような二つの神経に大別されます。
中枢神経(脳神経・脊髄神経)
末梢神経(体性神経・自律神経)

末梢神経のなかの体性神経は意識で動かせることのできる運動系の神経です。

末梢神経のなかの自律神経は意識では動かせない神経

自律神経は、自分が意識しなくても動いてくれているのですが、逆に言うと、自分の意思通りには動いてくれないということもいえます。

胃も腸も、心臓も腎臓も、私たちの内臓は自分が意識しなくも動いてくれる代わりに、自分の思い通りにはならないということを理解しておく必要があります。

呼吸だけは別
自分が寝ていても呼吸をしているように、普段、呼吸は私たちが意識しなくても自律神経がちゃんとコントロールしてくれています。

そして、呼吸は自分が意識してコントロールすることもできます。


自律神経は本来、自分でコントロールできないのですが、自律神経がコントロールしている「呼吸」を介することによって逆に自律神経をある程度自分でコントロールすることもできるのです。


●亢進させる働きである神経(交感神経)が緊張していると、呼吸は早くなりますし、浅くもなります。

●逆に安らぐ働きである神経(副交感神経・弛緩)が優位に働くことで呼吸はどうなるでしょう?


ゆっくりとした呼吸で、深い呼吸になります。

つまり、副交感神経が働くと呼吸はゆっくり深くなります。

安らぐ神経である副交感神経を働かせたり、リラックスしたい時には、意識的に深くゆっくりとした呼吸をすればいいわけです。但し、疲労によって背中が張り過ぎていると肋骨の開きもよくなく、呼吸が浅くなり、息苦しくもなります。

腹式呼吸法の二次的効果として、体に新鮮な空気、つまり新しい酸素を含んだ空気が送り込まれることで全身の細胞に変化が生じてきます。

同時に深い呼吸によって体内から血液を介して循環されてきた有害物質や不要なものを体外に吐き出す作用に注目していただきたい。

「腹式呼吸」という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、腹式呼吸は深くゆっくりとした呼吸に適しています。

腹式呼吸の「コツ」
まずは口から息をゆっくりと吐ききります。
そして、鼻から息をゆっくり吸い込みながら、お腹に息が入ってくるかのようにお腹を膨らまします。
それからゆっくり口から息を吐きます。

すると、お腹にたまった空気が口から少しずつ出ていくかのようにお腹がへこんでいきます。

最初は5秒間で吐き、それから5秒間で吸います。

一般的な腹式呼吸は、息を吸う時間よりも息を吐く時間を長くするよう指導しています。


しかし初心者には、同じ時間(間隔)で呼吸をすることをお勧めします。

なぜなら、効果もさほど変わりませんし、やりやすいからです。
吐く息の長さと吸うときの息の長さは個人個人の心肺機能の能力差もあり一様ではありませんが、自分の能力に応じて8で吐いて5で吸うでもいいでしょう。

ここで守ってほしいのは吐く息を吸う息よりも長くするということ。
その理由は、吐く息のときに副交感神経が働き、吸う息の時に交感神経が優位に働くように人間の体ができているからです。

日ごろの生活の中ではどうしても交感神経のほうが優位になりがちなものです。

それだけに副交感神経を優位に働かせる少しの時間をつくることは自分の健康づくりを考えたときに欠かせない要件だと思うのです。

耀は、長続きさせるのがコツで、自律神経は習慣的な動きをするため、「できることを続ける」ことが重要になります。

腹式呼吸が身体にいいからといっても一度に1時間もやってあとが続かなければなんにもなりません。

一度に行う時間よりも、一度におこなう呼吸の回数を目標にやられることをお奨めします。

吐いて吸うことを一回として、それを30回ワンセットに。

時間の取れる方は一日二回2セット日中と寝る前にできれば申し分なしです。

そして、腹式呼吸をするときの意識はヘソの下におければ最高です。
これは身体エネルギーを上昇させないための意識コントロールとして欠かせない条件です。

これが一ヶ月継続できれば体に変化を感じてきます。
心肺機能がアップする。
血流がよくなる。
免疫力がアップしてきた。
息切れしなくなってきた。
体力が持続するようになった。
不眠が改善されてきた。
のぼせが減ってきた。
身体が軽くなってきた。
内臓機能の具合がよくなってきた。
動悸が減ってきた。
頭痛が軽くなってきた。
老化の予防。
ホルモン分泌の活性化。
うつ病改善。
精神的安定と執着からの解放。
等々そのた様々な改善が期待できます。

腹式呼吸をするときの姿勢を紹介します。

立ち姿勢の腹式呼吸
kokyu

仰向けの呼吸法
aomuke

座位の腹式呼吸
zai

腰が楽な座布団使用
zabu

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sen

fufu

botan

siawase

2016/3/13
最初は好きで一緒になって、一つ屋根の下に暮らして、やがてお互いに嫌な部分に目がいくようになる。

仲良く一年365日怒ることなく生涯をそのような暮らしができたらこれに勝る幸せはないと思います。

夫婦は年月を経るにしたがって自分のもっている性格や良くない癖が表面にでてくるようなところもあるでしょう。

しかし、愛想が尽きたからとはいっても、そう簡単には別れられないのも夫婦。

お互いに相手を責めながらも情の部分もあり、理屈だけで別れられないこともあるでしょう。

専業主婦の場合は離婚後の生活費の問題もあり踏み切れないということもあるようです。


いざ離婚となれば、やれ財産分与だ慰謝料だ、子どもが幼ければ養育費だというように金銭的問題がからんできますからそういうトラブルを避けたいという気持ちもあろうかと思います。

夫婦のトラブルの背景には様々な原因があるようですが、女性のほうが現実的で、自分のおかれた環境と他の家庭とを比較する傾向があるということもいわれます。


例えば、他と比較するから、より良く美化された理想を追い求め、不満を持つようになり「隣の芝生が青く見える」の如く自分の夫が不甲斐なく思っていたということを反省の弁として話してくれた20代の方がいました。

大切なことに気づいたからいいのですが、この女性は夫に対する欲求が多い分だけ自分自身が苦しんできたことに気づけなかったのです。

優しい夫、経済的にも平均以上の給与をいただいている会社勤めの夫である。

足ることを知り、贅沢をいわなければ暮らしにも不自由することのない条件下にいながら、ほしいものを手に入れようとする気持ちが勝ることで夫婦の価値観の違いがより一層浮き彫りになってくる。

男女平等の権利とか、男女平等社会という言葉はありますが、確かに妻も働きながら家事をこなすというとは大変なことであります。

『私も働きながら家事をこなしているのよ』という気持ちが強くなればなるほど夫に対する不満が膨張してくるのですが、しかし、だからといってパートナーに対して乱暴な言葉使いで夫婦仲を険悪にするような発言をしていいことにはなりません。

いまの自分が恵まれた家庭生活のなかにあることに感謝できず、不満材料を探すときの心には、『足ることを忘れたより以上の欲望と不満』が根底にあるということもあります。

女のほうが現実的といわれる理由を聞いてみますと、結婚するときに男が求めるのは人間としての「かわいさ」や「素直さ」や「性格の良さ」が多いのに、女性が求めるものは外見ももちろんありますが、第一に「経済力」が上位ということもあるようです。

最近は女性も社会進出が進んで変わりましたが、それでも様々なアンケート結果を拝見しますと、まだ専業主婦になりたい人も結構いるようです。

意識として、結婚=永久就職という意識は決して無くなったわけではないのでしょう。

ただ、今の世の中、家庭生活の中身からすれば夫一人の収入で家庭生活ができる人たちは多くはありません。

男性の立場を考えてみますと、自分ひとり食うので精一杯ということもありますから、結婚後にどうしても共稼ぎが必要ということがあります。

また、男の人はなんだかんだで妻に感謝して、女性の方は旦那さんの収入に感謝しながらも、不満もあるっていうケースも結構あるようです。

実際には人それぞれ家庭の事情があると思いますが、総じて男性は妻の文句を言いにくく、表には出さず、女性は旦那の文句を言いやすい世の中なのかもしれません。

この辺の所は男と女の特性の違いでもあろうか。

男女の問題は結婚前と結婚後ではずいぶんと様子が変わってくることは誰もが承知するところだろうと思います。

女性は関係性が深まるとこれまでとは変わってハッキリとものをいうようになってくるといいます。

人にもよるでしょうが、女性の場合、自分とはあまり関係の薄い男なら慎重に行動も発言もしますが、いったん距離感が近くなったり、結婚して何年も一緒にいると遠慮がなくなって同性への関係性と大して変わらなくなってくることがあるようです。

本音というのは自分の気持ちや考えを正直に話すという意味ではいいのですが、その場その場で感情によって口から言葉が出ても『私は本音で言うから』と、はき違えた考えだとこれもまたよろしくない。

結婚前はそれでよかった条件も、結婚したらそれが当たり前になってしまって、他所の家の芝生の青い部分ばっかり見て不平不満を恥ずかしげもなくさらけだすことに躊躇しないといようなことがあればこれもまた問題ありです。

ある男性はいっていました。
『そんな妻を選んだ自分が悪いと考えて諦めています。』と。

何も女性を批判の対象として述べているのではありません。

相談に見えた男性の本音の一部分を述べさせていただきました


ともあれ、男女の違いは特性の違いによってもあらゆる場面で価値観の相違となって影響してくるものだということだろうか。

であればこそ余計にお互いが相手の心を理解し、その存在や努力を認めてあげる思いやりが大切かと思うのです。

女には、どうしても理解しがたいことがあるといいます。

『男は仕事に注ぐだけの熱情をなぜ家庭にそそげないのか』ということ。

妻の良し悪しということが夫にとっては真剣な問題ではあろうが、それは妻にとっても同じ事が言えるのでしょう。

男の宿命は、外に出て働いて生活の糧を得ること、これが第一義にあります。

しかしながら家庭に目を向けない、妻に対する思いやりにかけるということもまずい。

家庭をもった男には働くことが欠かせない要件であって、家庭に心を向けることはいいにしてもそれがまた過ぎてしまって本文である働きが全うできないようであればこれもまた家庭不和の一因ともなるでしょう。

何事においても欠けていることも困るが、さりとて過ぎるもまた困りものです。

ソクラテスは面白いことを言っています。

『君がよい妻を持てば幸福になるだろうし、悪い妻を持てば哲学者になれる。』と。

なかなか重い言葉ですね。
なるほど、とうなずけるところありです。


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sen

bunsyoukotoba

gazou

成功哲学 
2016/3/04

大きな成功をした、挫折したという話題を聞くことがあります。
多くの人は「成功」というと、ビジネスで大きな成果を出して大金持ちになることだと思っている人が多いかもしれません。

しかしそれは人生の落伍者の道をまっしぐらで走り続けることになります。

どんなにお金を持っていようと、どんなに広い豪邸に住んでいようと、どんなに高級な車に乗っていようと、どれほど贅沢な暮らしができようと、内面から安定していなければ真の成功はありえない。

この内面という言葉の意味ですが、心の内面もさることながら、家庭の充実、調和というものがなければ真の意味での成功者とはいえないでしょう。

書店をのぞいてみると、成功する方法、金持ちになる方法、自分を売り込む方法、有名になる方法、仕事がうまく行く方法など、ありとあらゆる成功哲学、啓発系書籍が溢れています。

これらの成功哲学の原点は、宗教思想の霊性の向上が背景にあり、アメリカ的な西洋思想として、歴史を経る過程で、この社会の中でいかに富を得て成功し、活躍するかという現代の成功哲学へと変容してきました。

しかし、現代は成功哲学だけが強く前面に出て、人間の霊性進化という心の内面性を尊重して向上するというが要素が抜け落ちているような感じさえあります。

世俗的な成功をすればよしとする傾向がアピールされているということでしょうか。

しかし、実際は人間の内面的なところを復元させることで、圧倒的な成功哲学の方法論を確立することができるのですが、そうなってしまうと、もはや世俗的な意味での成功を希求する度合いが低下すると思われるところもあるかもしれません。

結果、成功の意味そのものの意味が変化してしまいます。

そういう意味で、言い方が極端かもしれませんが、現代成功哲学、自己啓発、ビジネス書が提唱している世界観は、本質を失った、唯物的、経済偏重主義であるといえなくもありません。

こうしてみると、経済偏重主義や唯物的な考えを優先させるということは、お金や物では豊かになれるものの逆に大切なものを失いかねないということもあります。

こうなると人間本来の霊性の追究ではなく、全く逆のエゴイズムの拡大、自我肥大ということに偏っていくということだろうと思うのです。

金儲けをするためだけのハウツー本に偏ってはいけないということでしょう。

成功に関する書籍の場合は特にそうですが、およそ欠いてはならず、メインとしなければならない霊性の向上について述べられているハウツー本はあまり見当たらない。

当然、これらのビジネス書やそういった方法論を実践しても、ほとんどはうまく行きません。

もしうまくいっても、あらゆるトラブルに巻き込まれるケースがある。

本質(心)を失った儲け主義偏重の偽物は、人を本当の幸せには導かないからです。

もちろん、成功哲学や自己啓発の中にも、本質を失っていない方法論はあると思います。

書籍の中にも世俗的な願望だけを実現させるのではなく、自我意識を超越し、大いなるもの、霊性のステージアップへと人を真に導いていくものもあるでしょう。

しかしそれは、万に一つの本当に稀なる存在です。

誰もが成功、成功と経済的富だけを追求し、それが人生の成功者のごとく書き記すのだが、なぜ私たちは成功しなければならないのか。

それは目指すべきものなのだろうか?

本質を失った成功は、不幸への入り口です。

そんな表面的な成功を得るために大切な人生を費やすような生き方ではなく、真の成功を求めていきたいものです。

私がいわんとする真の成功とは、世俗的な成功を求めることをやめることから始まります。

成功して、有名になって、チヤホヤされたい。

権力を得て、人を自由にコントロールしたい。

金と地位にまみれて、快楽と目先の満足だけしかない日々の生活。

それは一時の喜びを与えてくれるかもしれませんが、しかし、それは深い虚しさと共にあり、消えることがないであろう限りなき深い欲望の虜となってしまいます。

お金も地位も、経済的な富も、他人から見ればうらやむほどの生活ぶりでありながら、日々、ノイローゼとなって最後には自らの命を絶った人を知っています。

悲しい人生です。
その虚しさから逃れるために、さらなる快楽を求める。
そのために多くの人々に迷惑をかける。

しかし、どれほど物質的な富や名声や権力を得ても、死と共にすべてのものを失います。

物質的、世俗的快楽が大きいほど、それを失う恐怖は増大します。

死に際してはなおさらである。

圧倒的な虚しさと表裏一体である快楽を追及し、すべてを失う恐怖に慄(おのの)き、多くの人から批難と軽蔑と恨みの念を買い、死んでいく人生。

果たしてこれが、私たちが憧れる成功者の人生なのだろうか。

こういう現実をしっかりと見据えて、私たちの真の成功とは一体何かを自分の力で見出さなければならないと思います。

それは、どこかの教祖やグルやカウンセラーが教えてくれるものではなく、自分の人生で、自分の経験から少しずつ学んでいくものでしょう。

もちろん、成功しても虚しいのだと気づくために、世俗的な成功を体験しなければならない人生もあるだろうという意味では、そういう人生を否定することはできない。

しかし、ビジネス書が提唱しているような方法論では、そういう世俗的な成功すら体験できようはずがない。

有名な経済学者が会社を起業して、一年を待たずに大きな負債を抱えて倒産してしまった事例があります。

本一冊で金儲けができるほど世間の風は優しくはありません。

現代のアメリカにおいては、成功者の奉仕活動をする風潮が拡大してきていることをみても、自分のためだけの富がいかに虚しいものであるかを知った人たちの活動であることが理解できるでしょう。

今や成功者たちが社会への奉仕活動をすることはアメリカでは一つの社会通念となっています。

人間、自我の力というのは、わずかなものでしかありません。

成功を求める生き方は、自我肥大をベースにしていると言っても過言ではない。

たとえ潜在意識や無意識という言葉を使おうとも、本当の意味で潜在的な力を使うことはほとんど出来ないものです。

潜在的な力は、自我(表面意識)の範囲にはないため、自分が成功して、有名になって、現象をコントロールしたいという、相反する欲望がある限り、その力は顕現して来ないのです。

自我を超越する方向にあるのは、成功ではなく、「自然」です。

ここでいう自然とは私心がない事。

私心とはバランスのとれた精神状態のことであって、心に執着心がないことです。

このようにバランスのとれた心が潜在意識を正しく、強く働かしめるのです。

すべてが自然に流れていくそこに我欲、執着、拘りはなく、どのような小さなことにも心底から感謝の意志を表現していき、拡大のためだけの欲望追及もありません。

偽(いつわり)の成功は、拡大を追及するということ。
真(まこと)の成功は、本質を追及するということ。

偽の成功は、我を拡大するということ。
真の成功は、我を滅するということ。

偽と真は方向性が真逆なことがわかります。そして、真の成功への道を進むなら、偽物つまり、我欲を捨てなければなりません。

相反するように聞こえるであろうが、世俗的な成功を追及することをやめ、意識の方向性を感謝と調和、すなわち、足ることを知って執着しない生き方、働きに変えたときに始めて活路が見えてくるものであります。

成功を求めない生き方こそが、人を真の成功へと導くでしょう。
そこには我はなく、自然(調和)だけが圧倒的かつ、不動な存在として光り輝き躍動しています。

求めると去り、捨てると得られるものが真我という自己の本分ではないだろうか。

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sen

ki

『夢と心の状態』2016/3/01

一本の木の根元には湧水がありその木の回りには囲いがされてある。
不思議なことにその木と囲いが朱色に染まっていてまるで神社の鳥居のような雰囲気にも似ています。

そしてその木には葉っぱがなく、立ち枯れ状態での朱色だったから余計に不思議な光景です。

これが私が朝方にみた夢の光景ですが、このあと私の経営する観身堂の玄関わきに植えていたモミジの木が根元に虫が入り込んで立ち枯れてしまいました。

夢は誰もが見ていることであり、記憶している夢もあれば、まったく憶えていない夢もあります。

いったい夢は何を意味しているのだろうか。

夢に生活上の重要性はあるのかないのか、フロイトの『夢の解釈』は有名ですが、夢とはなんだろうか。

普通、夢には主観的なものと、第三者の介入による夢とがあります。

主観的なものは、自己の想念がつくり出したもの。
これは思っていることが夢に現れる状態のことです。

第三者の介入の夢は、霊的な存在の影響によるものがありますが、しかし、これは霊的な存在に対して懐疑的であったり、存在そのものに対して否定的である場合は、これから述べる霊的内容に関してはスルーしていただければと思います。

先ず、主観的な夢ですが、他愛もない日常の出来事に関するもの、美しい情景を見てくる、天女と語る楽しい夢などさまざまです。

反対に、暗く気持ちの悪い夢、呪われた世界などの夢は自分の心に不調和な想念があることによって、その心の状態が夢となって現れてくることがありますからよくよく日ごろの自分を反省して心を調和することが大切です。

心の不調和というものの代表として
『不満・愚痴・怒り』というものがあります。

これは人間の心の三毒ともいわれ、古代より戒められてきた人間のエゴ、自我、業といわれるものです。

夢の中で蛇に追いかけられる、あるいは巻きつかれる夢の場合は、情欲を秘めている場合、嫉妬で苦悩している場合、何かにつけて執念をもっている場合、蛇を虐待して殺したことが過去にある場合などにも現象となって見ることがあります。

自分の想念によって作り出された夢とは別に、こうした夢は、実際にあの世の階層を実際に見ていることが多々あります。

それは同時に、自分自身の、そのときどきの現実の想念のあり方にも問題があるために、そうした階層に通じ、またそのような日頃の想念が、夢という形で現象化されていることを意味します。

したがって、こうした夢は、次元の高い世界の夢ならともかく、いやな夢、ないしは調和に反した暗い夢の場合は、自分の想念のどこかにあやまりがあるのですから、よくよく反省し、修正する必要があります。

夢はたいてい朝方です。
眠るという行為は、日常活動の表面意識の休養を意味し、霊的な視点からいえば、あの世の高次元のエネルギーの補給を行っているのですから、意識の休養中に夢をみるのではなく、エネルギーの補給を終え、朝方に潜在意識の働きによって夢を見る、そして夢を憶えているということになるわけです。

つまり、魂(心)が補給を終えたあとで表面意識が、いつでも活動しやすい状態になったときに、夢という現実的な想念とつながることで夢となって働くわけです。

また夢は、自己の想念と行為をごまかしなく再現するものですから、反省の材料としては、またとない資料と受け止めたいものです。

現実生活の私達の想念は、形になって現れないとわかりませんが、夢の場合は、日ごろの想念がなんの抵抗ないために現象化されますので、夢の中の行為は、自己に内在する想念の、偽りのない姿といえるでしょう。

日常活動のなかでは自分の本当の想い、すなわち想念を偽ることができます。
これは起きて活動しているときは表面意識で活動しているからです。

その点、夢の世界では表面意識が休息状態で潜在意識が優位に働いた世界ですから自分のほんとうの姿が現れることですから偽ることができません。

理解できるでしょうか?


一方、第三者の介入による夢は、朝方よりも、真夜中に見る場合が多いものです。

眠りが浅く、なんとも寝付かれず、ウトウトしながら悪夢を見る。
誰かが自分の布団の上からかぶさってきた、足元に立っている人がいた、等々さまざまです。

恐ろしさのあまり、目を覚ましたときは、自分の腕が胸の上に置かれ、グッショリと汗をかいている。

こうした場合は、実際に霊や生霊などがそばに来ている場合があるものです。
寝入りばなの金縛りもそうです。

非科学的だという方もおられるかと思いますが根拠のないことを述べているわけではありません。

いずれにしてもこのように悪夢にうなされる場合は応急処置として『光の天使、諸天善神よ。私の心に光をお与えください。安らぎをお与えください。』というように心で念じて、あの世の光りの天使、または諸天善神に一時的な加護を求めることで急場をしのぐことが可能となります。

大事なことは日ごろの心の不調和をなくし、安息な生活をするべく、常に調和を心がけ、反省と実践の継続的な努力をすることが望まれます。

特に怒りを心に持っている人の場合は、他人に対しても、家族に対しても些細なことで怒るということを、何度も同じことを繰り返すことのないように自分を律することを忘れてはならないでしょう。
または誰かに対して恨みの想念をもっている場合も改める必要があります。

『一念三千』という言葉が示すように、人間の想念はその心次第でどのような世界にも通じるものです。

怒りは利己的であり、自己中心であり、同時に愛への渇望が背景にある場合にそうなることがあります。

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irasuto

sen


souryo

2016/2/27投稿

『一大事』

〃生を明らめ、死を明むるは、仏家一大事の因縁なり〃
この言葉は道元禅師という鎌倉時代初期(約800年ほど前)に存在した僧侶の名言のひとつです。

『一大事』という言葉は通常は大事件、災難危機にあって大変だ、一大事だと慌てふためくというような状態をあらわす日常語です。

しかし、道元の言わんとする『一大事』はそういうことではありません。
あなたの人生において
一番大事なことは何か?と問いかけています。
そういう
一大事です。

人それぞれの立場において違いはあるでしょうが、人生における一番大事なものということになればそれは何だろうか。

仕事だろうか。
職業だろうか。
自分の地位だろうか。
これまで得た名誉だろうか。
財産だろうか。
何事も先立つのはお金だからと思って経済力が一番大事だと考えるだろうか。

実際はどれもみな大切なものであろうと思いますがそういうことではありません。。

ここで少し視点を変えてみましょう。

道元禅師のいう、生を明らかにするということの意味は、
自分の人生をどう生きるのか?
何のために生きるのか?
それを明らかにせよ。といっています。

そして自分にとって死を明らかにするということはどういうことなのか?

それを明らかにすることで生すなわち命を明らかにすることになると示唆してくれています。

この自己の生と死はどういうことなのか?を明らかにすることこそ一番大事なことではないでしょうか。

人生には生か死の二つがあるだけです。

しかし、この二つは決して別物ではなく、一つの線でつながっている形の変わった生き方でしかありません。

私たちにとって一番大切なことは、実は自分の
生き死にの問題ではないのか。

どう生き、どう死ぬかということは人生そのものを考えて明らかにすることであり、そのためにも今という瞬間を精いっぱい生きなくてはならないと思うのです。

今という瞬間を精いっぱい生きなくてどうして死を明らかにすることができようか。

死を明らかにするということは、死に対する心構えでもあり、覚悟でもあります。生きるということを自分のなかで明らかにできてはじめて死というものに向き合えることができます。

ですから、ぼんやりと虚しく過ごしていてはいけない。
だから道元は
「この一日は惜しむべき重宝なり、一生百歳のうちに一日は再び得ることなからん」
といっています。
つまり、百年生きても今日という日は二度と戻ってくることはない。
だからこそ一日一日を大切に精いっぱい生きよということでしょうか。

『仏道を習うとは自己を習うなり』

これも道元禅師の残した言葉です。
仏道というのは出家した坊さんにとっての修行の人生でありますが、私たちのような在家の人間にとっても『仏道』⇒『人生』と置き換えて解釈することができます。

つまり、仏道は人生そのものといえるでしょう。

そうすると、人生を習うとは自分をよく知ることだと理解できます。

人は往々にして自分をわかっていないところがあります。
だからこそ『自己を習うなり』と教えてくださっているのでしょう。

自分を知るとは、心の状態を知ることであり、それは長所も短所も把握したうえで短所はその都度反省をしながら改めていくこと。

そうしますといつ間にか少しずつ成長している自分に気づくときがきます。

自分に嘘をつくということは、都合の悪い事から目をそむけるということでもあり、これはそのまま自己の偽りということがいえます。

自己を習うとは、自分に嘘いつわりのない心を確立させること、物事に対して決して偏った考え方や受け止め方、偏った思いをもたない事が基本です。

そして、自我の心がこもった言葉を発しないこと。

物事を比較してみる。
他人と他人を比較して見る。
自分と他人を比較して見る。
こういった相対的価値観はときには優越感をもったり、劣等感に陥ったりします。

これはどちらも偏った価値観といえます。

人間のエゴはこういうところにも顔をだして自分の心を不調和にしていきます。

出家者に限らず、私たちも自己を習う気持ちを忘れずに日々精進していきたいものです。

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sen


fufu
2016/2/2投稿
子育ては妊娠から始まっている!

夫婦がしっかりと愛し合い信頼し合う・・・。
このことで得られる価値は計り知れません。


計り知れないほどの価値。
それは心の財産として夫婦相互の幸せを支えるものです。

夫婦関係が子どもにどういう影響を与えるのか?という視点に立った子育てを考えてみましょう。



「夫婦が円満であること」これがあれば、特別な教育ということを考えなくても、子どもは安心感のなかで育ちますから、のびのびと明るく成長するでしょう。

夫婦に調和のあることが最大の子どもの心の栄養となり、活力となるからです。

夫婦が円満であるための第一条件は、決して乱暴な言葉づかいをしないこと。
馴れ合いの中で相手にかける言葉が
「○○してよ!」とご主人にかける言葉。

「おい、○○しろよ!」と妻にかける言葉。

こういった自分の気持ちをちょっと間違えた言葉にすることで反発を買ってしまうケースが多いようですが、言葉を発するときは静かな思いやりを忘れないでいたいものです。

子育ては、教育、教育と構えて言葉や理屈で育てようとすればするほど子どもは反発してきますし、必ずしも知性で子育てができるわけではありません。

そして、感情とか心情で教育されるところが大きいと思うのです。

親の感情をそのまま受け、それが子どもの基本的な人格形成に関わり、人生観になり、価値観になっていきます。

人と人との関わり方をそこから学び取り、人を思いやること、気遣い、さらに人生を生きるための根本的なスキルを学ぶわけです。

さらに親から、よき資質を継承し、自立し成長していきます。


親同士が信頼と愛でひとつになって子どもに向き合っていれば、もう細かい指導やしつけはあまり必要がないと言えるほどです。

私が以前ブログで投稿した記事の、「子どもは学校の先生が言ったようにならず、親がおこなったようになる」という言葉は、子育ては言葉ではなく、理屈や分別や、知性ではなく、調和された夫婦愛が大切だということを言わんとしたものでした。

夫と妻がお互いを尊重し、尊敬し、理解しようとしている姿勢がある。
こういう家庭に育った子どもは被害者意識を持ちません。

夫婦仲が悪くなってしまうと
もし日ごろから夫婦間に不満があり、常にいがみ合っている、背中を向けている、慢性的なストレスにおかれている環境、威圧的であったり、強引であったり、感情的であったりすると、その子どもはのびのびとした成長がなされません。

最近の青少年の犯罪の大半は家庭環境から来る反発、怒り、喪失感などが原動力となって起こっているところが大きいでしょう。


自分が不幸なのは親をはじめ、環境や周りの人間たちに原因があると感じて育つのでそれを人や社会にぶつけてきます。

家庭崩壊が子どもの人生を破滅させてしまうことはとても悲しいことです。
さらに夫婦が不仲であることは心の空洞となり、その埋め合わせが子どもに向かう場合があります。

「子どもを自分の願いの通りに育てよう」という強い思いとなるほどにかえって弊害が生じます。

どこの親にもある思いでしょうが、親は自分の子どもが成功すること、優れた人間にしようとします。

子どもの将来に期待して人生をそこにかけます。

夫婦同士はいつも不協和音なのに「子どもだけは優秀に、立派に育てよう」と頑張ってもそのようにはいきません。

なぜなら子どもは「親の言うこと」ではなく「親のしていること」を教科書にするからです。


この教科書は将来、子どもの幸せをみちびくための教科書になるとは限りません。

子どもの責任と親の責任
さらに「子どもの責任」と「親の責任」を親がごっちゃにしてしまうこともあります。
●親が子どもに願うものが子どもの幸せとは限らない。
●親の価値観は子どもの価値観と一致するとは限らない。
●子どもは親とは違う人生観を持った別個の個性ある人間。

子どもは自分の領域が親に侵害されると潜在的にとても反発を感じてしまいます。

両親の不仲によって子どもは生命力や心のエネルギーがどんどんマイナスに傾き奪われていきます。

すると子どもは無意識に親に激しい怒りを感じます。

それはあたかも、暗く重苦しい音楽や映画を強制的に押し付けられるようなものです。

両親がいつも、皮肉を言ったり、無作法な態度をとり、お互いに拒絶、対立していれば、常に恐怖映画や戦いの映像が家庭内で展開していることになります。

家庭環境は呼吸する空気のようなものです。


夫婦の不仲は、毒性のある空気となり子どもの心を蝕みます。

人間の健康も清涼で新鮮な空気を吸い込むことで保たれます。

子どもの持つ本来の生命力、順応性は大人の比ではありません。
とてつもない可能性が秘められています。

子は親の背中をみて育つ
子どもは親の背中を見て育つと昔から言われています。

常に親が前向きな心で自分を振り返り、自分を磨きながらよりよい価値観を持つ努力を怠らないならば、子どもは自ら親のよき資質を相続していくものです。

また、離婚や死別で両親が揃っていない場合でも、親子の信頼関係がしっかりとしているときは、子どもは生命力を発揮します。
両親が揃っていない環境であっても、たくましく思いやりのあるお子さんが育つケースは数多くあります。

親が苦労しながらも、子どもをまっすぐな愛で包みこみ、真剣に生きていること。


これはそのまま子どもの自立性を啓発してより価値ある生き方を模索することにつながります。

たとえ、両親が揃っていたとしても、夫婦不仲であることの弊害は子どもにとっては想像以上に大きい。


ブログから『夫婦』

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sen


2016/1/28投稿
gazou

自分に闘いを挑む

人間は誰もが経験するであろう窮地の場面というものがあるかと思います。
その窮地に立たされたときにこそ、敢えて自分をハングリーにすることで見えてくるものがあります。


窮地は捉え方によって自分の劣等感を克服することができるチャンスでもあります。


自分との闘い、自分への挑戦。

これは自分をハングリーにするということでもあります。


もし、何もしたくないと思うならそれもよし。

徹底して何もしないで過ごしてみることもいいでしょう。


それでも極限までくれば、何かをしないではいられない自分を発見するものです。

自分がかわいくない人間は誰もいません。
I love me 特に若い人たちには自分の思いをしっかりと主張してほしい。
当然、社会からは反発や批判も多くなるでしょう。

しかし、それを跳ね返す力は自分の中からしか出てこない。

そして、意見は、進歩向上を願っての意見なら抑え込む必要はなにもない。

また健康は大切です。
いかにすぐれた才能があっても、体の健康を損なってしまっては十分な仕事もできず、せっかく持ちえた才能もいかされないまま終わってしまいます。


それでは健康であるために必要なことは何かというと栄養であるとか、休養ということになるのですが、それ以上に特に大切なのは心の持ち方です。

仕事に対する心構えは人生の基本であります。

現在与えられた今の仕事に打ち込めないような心構えではどこの職場に変わっても決していい仕事はできない。


そして仕事に打ち込めない人間ほど周りのことに心を向けて迷いの原因を探している。


無理をしろというのではないが、命をかけるというほどの熱意を持って仕事に打ち込んでいる人は少々忙しくても疲れもせず、病気もしないものです。


それは気持ちが前に行ってるからです。


自分をハングリーにするということは大切なことですね。


sen


2016/1/21 投稿
siwase
笑顔
幸せを感じることができる人の様子をうかがっていますと一つの共通した事柄が見えてきます。

先ず、
笑顔が輝いています。
人間は悩み苦しみを抱えているときは笑顔がでないと思うのです。
目は心の窓といいますが、同時に顔は心の鏡ともいえるのではないでしょうか。

そして、人間関係においては特に心の内面が映し出されてきます。
幸せを感じることができる人は、幸せは探すものではなく、幸せは外にあるものではなく、自分の心の内にあるもの、自分の努力によってつくるものだということを知っているのだと思います。

しかし、幸せ、幸せと、幸せを過剰に意識して求めると、その時点で拘りがうまれ心のバランスが崩れてしまうことになり、かえって幸せが遠ざかることがあります。

そういう意味では、幸せは外に求めると遠ざかり、今の置かれた状況のなかでどれだけ小さな幸せを感じることができるのかということでしょうか。

外に向いた心には
知足という、いわゆる足ることを知る心がないから際限なく欲に翻弄されやすくなります。

仕事と幸せのつながり
例えば、仕事でストレスを感じて居心地が良くないから会社を辞める、転職するという人の場合、ストレスの原因や理由をあれこれと外に探していることに気づいていないケースが多々あります。

自分の想いや価値観を中心にするあまりに少しでも自分の意に沿わない事柄をみつけるとストレスだと判断してしまう。

仕事というのは外側から見るのと、内側から見るのとではまったく見え方が変わってきます。

ものすごく憧れていた仕事に就いたのに、理想とはかけ離れた現実に「こんなはずじゃなかった・・・」と思い、辞めてしまうケースも決して少なくないでしょう。

憧れや理想は大いに大切なことです。

しかし、いざ仕事をしてみると想像していたこととは違うとか、社内の空気が嫌だとか、人間関係が云々ということを言いだし、基本的な辛抱というものが欠けているとすれば、これは社会のなかで生きていくという観点からしていささか問題があるかもしれません。

社会も会社も、家族も、みな人間同士の協調性によって成り立っていることを悟るならば、自分を中心とした非協調的思考、独りよがりの価値観ががどれだけ自分自身を苦しめることになるのか、または周りの人や家族に負担を強いることになるかということも考えなくてはと思います。

一例ですが、仕事が続かない人には次ようなものが当てはまることが多いです。

転職癖がついている、

理想が高い、

我慢ができない、

サボり癖がついている、

条件にこだわりすぎる、

居心地のよい環境にこだわる、

一度就職すればそこで長く働けるのが理想ですが、会社がブラック企業でも無いのに、3か月~半年、一年以内と働いて自分の仕事内容に疑問を感じ、比較的短期間で転職癖がついている場合もあります。

これでも若いうちは通るのですが、歳を取れば取るほど仕事は見つけにくくなるのが現実です。

自分にあった適職に合うまで転職を続け頑張る人もいますが、結局飽きたらまた新しい会社へ転職しようという転職癖がついてしまっている人もいます。

合う合わないを論じること以上に短期間で結論を出してしまうことは、成し得るということを考えたとき、辛抱、忍耐というものが足りないということも考えられます。

転職する度にまた新しい事を覚えなければ行けませんし、大変なものです。
しかし、お給料は世間並なのに、飽きてしまったとか、ストレスが云々・・・といって辞める人も以外と少なくありません。

職場内においては仕事を一緒にやる人を選ぶことができないと様に、会社には怖い先輩、口が悪い人、性格がいじわるな人など様々います。

もちろん自分にとって都合がよく相性の良い人ばかりではありません。

ですが、仕事においてミスをするということは周りにも迷惑がかかり、その仕事のミスによって他の人の仕事も取られてしまいますし、時間も取られてしまいます。

怖くて仕事をききづらいから良く解らないけど自分判断で処理したなど、また失敗した事を怒られるのが怖くて失敗したことそのものを隠していたという人もいるでしょう。

後で皆が困る事をしてしまう人もいます。

そういう人は周りに迷惑がかかるため解雇されてしまったり、その人のコミュニケーション不足が主な原因であるにも関わらず「この職場はやりにくい。
雰囲気が悪い。素が出せない・・・」と自分の都合で解釈して仕事をやめてしまうこともあります。

不満足と理想の弊害
今の職場で安定しているのに今の自分のポジションに満足せず、もっと遥かに高いところへ!と理想を持ち会社の帰りや休日を利用して資格取得に勢を出している人もいます。

今の世の中何が役に立つかはわかりませんが、自分自身向上の為に沢山資格取得を取り、今以上に良い所へ転職を考えている人もあなたも周りにちらほらいるのではないでしょうか。

特に人間関係で揉めてなくて良いところなのに何故?と周りから思われるような人がいますが、本人自身が今の現状に嫌で、もっと位の高い仕事や会社に行きたいという願望で頑張って会社を辞めてしまう人もいます。

決して悪いことではありませんが、長いスパンでその人を見たときに、同じ様な事を何度も繰り返して結局何になりたいのか解らなくなり、仕事が続かないような状況に陥っていることがよくあります。

忍耐、辛抱が足りない
仕事をしていると、嫌なことが少なからず出てくるものです。

嫌な仕事をやらされたり、先ほどお伝えしたように上司や同僚と上手くいかなくて悩むこともあります。

そんな問題をうまく解決していけば、仕事が楽しいと感じたり、仕事にやりがいを見つけられるかもしれません。

ですが、我慢ができない人だと、少し障害やカベが立ちはだかると仕事辞めたいという感情に支配されてしまい、すぐに仕事を辞めるという決断をしてしまいます。

できないことや嫌なことがあると、もうダメだ、と自分で諦
めてしまうため、仕事が長くは続かなくなってしまいます。

条件に拘りすぎる
時給は何円以上がいい、勤務時間はこの時間がいい、休日は土日祝祭日でないと、などといろいろな条件を常に考えていると、働いているうちに「ここは時間が融通きかない」や「仕事は大変なのに、時給が低いんじゃないか」などと悪条件しか見えなくなってきてしまうものです。

その仕事が本当に楽しくてやりがいがあると、少しの悪条件など気にならなくなるのですが、条件を求めてその職場に入った人だと、やはり悪条件の方に心がいってしまいます。

それを考えていると、もっと条件のいいところに行きたい、という感情が生まれてきてしまいます。

悪いところばかり目につくようになってしまうと仕事のモチベーションを維持することが難しくなり、結局すぐに仕事を辞めてしまいます。

ですが、新しいところへで仕事を始めても、また同じように悪いところを探し始めそこに心がいってしまって、また仕事を辞めてしまう結果になってしまうこともあり、仕事が続かない人になっていってしまいます。

まとめ
いかがでしょうか。
仕事が続かない理由はもちろん人によって違うものです。

ネガティブな理由もあれば、前向きな理由もあるでしょう。

仕事が続かないという言葉だけだと、あまり良い印象を与えることはありません。
しかし仕事を点々としていたけれど、その過程が今の仕事に十分すぎるほど活かされている人もいます。

このことから、仕事が続かないというのは決して悪いことだと決めつけることではなく、最も大切なのは、その「今」を将来にどうつなげるかということ。

そういう姿勢で日々の仕事、転職先での職業に向かっているのかです。
仕事が続かない・・・と自己嫌悪してしまいがちな人は、ここまで述べてきた事柄の真意を考えてみて参考にしていただければと思います。

同じことを繰り返さないように未来へ活かしましょう。

きっと「これだ!」と感じ取れるような仕事に巡りあう、またはつくり出すことができるはずです。

また、もしあなたの仕事が上手くいっていなかったり、職場での悩みがあるのであれば、これを機に自分自身の思考壁、心の在り方、使い方を省みるのもいいかと思います。

ここでもう一度幸せについて述べてみます。
幸せを感じることのできる人は、「今」に感謝する姿勢を維持しているようです。

幸せと思うその瞬間、それは今の感情であって未来にあるのではありません。

今、目の前にあること、側にいてくれる人、それらに感謝ができること、思いやりをもって接することができる人は心が幸福感に満ちています。

他人と比べない。

他人と自分の比較は見方によっては自分の侮辱にもなり、比較によって優越感を感じるならば他人を侮辱することにもなります。

そして比較は不安を作り出し、その不安に苛まれます。

当然のことですが、不安な状態は幸せとは反対方向にあります。

自分と他人を比べることがなければ幸せに近づくのになぜ人は自分と他人を比較するのでしょうか。

これこそが幼いころから私たちが競争のなかで教育されてきた弊害の部分でもあります。

兄弟、姉妹のなかで比較され、学校にいけば生徒同士を比較され、社会のなかでも同僚と比較されながら生きているなかでいつの間にか相対的価値観が身についてしまっています。

進歩するための比較は悪いことではありませんが、それによって優越感や劣等感を持つことは心の幸せからは遠ざかってしまいます。

他人と自分を比較しないことは幸せの法則の基本原則です。

何事もあきらめない心を持っている
リスクを学びにする考え方、失敗してもそれを思考し継続することで喜びを実感できること。

物事の結果は、失敗か成功かのどちらかでしかないという考え方が多い中、幸せの法則を持って生きる人たちは、ここで
「その失敗から学び、成長し、最終的には成功する」という考え方をします。

うまく行かなかった場合も
「今」に感謝をして、そこから学び、やがては成功して幸せを実感できるという姿勢です。

思いに信念をもっている
自分の考えや行動に自信を持つには、先ずは今の課題を消化することが大切です。

自分が為さなくてはならないことを避けては次の課題や目標をクリヤすることも困難となります。

何事も一つづつ昇華することです。

『未来的思考』ができること。
未来的思考があれば考え方のベースができ、どんな事態が起きても冷静な判断を下すことができます。

自分を信じて生きることは、幸せの法則の中でもとても大切なことです。

「できない」と思っている人が、何かを成し遂げるということはあまりありません。

「できる」と自分を信じて目標に向かい、日々それを楽しみ、それに打ち込む。

自分にとって、心から正しいと思うことを信じ、そのことをクリヤすることで自信を持てば、心は満ち足りて笑顔も生まれます。

自分にとっての幸せとは何かを知っている。
「幸せになりたい」とは誰もが思う願望ですが、しかし、自分の幸せとはどんなものであるかと、しっかりと認識している人は、どのくらいいるでしょうか。

どこか、ぼんやりとしていないだろか?

「幸せ」と感じることは人それぞれ様々なのですから、それぞれの人がしっかりと、自分だけの幸せを認識していなければ、いつまでたっても、ぼんやりとした幸せしか巡ってこないのが幸せの法則です。

静かに自分の心の声に耳を傾け、自分だけの幸せを認識したいものですね。

向上心
「自分の能力はどんどん向上する」と考えている人は、その能力がどんどん高まり、「自分の能力は固定されている」と考えている人は、能力がほとんど伸びないと言われています。

ここに限りない人間の可能性というものがあります。

地道な努力を苦労だと考えない
自分を幸せにすることが上手になってきたら、その幸せ観を積み上げてみましょう。

もし将来に希望を持ち夢も持ち合わせているのでしたら、夢は現実の中で戦ってこそ意味があり、他人の夢に自分を投影しているだけでは、充実した幸せ感は体験できないでしょう。

一日が終わり、眠る前に、今日の自分に起きた良いこと、楽しかったこと、幸せだったことを思い出してください。

時間があるなら、それをノートに書き出してみても良いでしょう。

24
時間のうちの数分、この作業を毎日繰り返すと、心の回路は自分にとって幸せな、ポジティブな自分をみつけることが上手になります。

そういういう意味で
「ポジティブ思考でいること」は、幸せの法則で絶対条件でもあります。

ひとり占めよりも分かち合う喜びを知っている
自分のことを誰よりも理解して支えてくれる人、そういった人間がどれだけいるか、それによって幸福度は大きく変わります。
これには自分自身の人間性が大きく左右してきます。

何故なら、理解してくれること、支えてくれることは、周りの人たちがその人間をどう評価しているのかということも関係するからです。

素直で愛ある生き方、言い換えれば心ある生き方をすることで分かち合えるし、他人からも支えられることになるでしょう。


このように考えると、「幸せ」とは一人で得られるのには限度があります。

社会そのものが人間同士の関わり合いで成り立っていることを理解すれば当然の理でしょう。

心を許せる大切な人と幸せを分かち合い、共に喜ぶことで、その幸福感は倍増すると思うのです。

「幸せ」は分け合ったからといって、減ることはありません。

その幸せのエネルギーは循環し、さらに大きなものとなって、またあなたの元へと戻ってきます。

エネルギーというものは、形を変えて循環するものです。これは自然界の営みであり、大宇宙の法則です。

その流れを留めようとすれば、歪みが生じます。

同じように、自然な心の流れに逆行する拘りや執着は自分の心に歪みを作ってしまいます。

「幸せは分かち合うことで大きくなる」
これは、とても大切な幸せの法則です。

自分の人生を自分で選択し、決めて生きている人は心に信念を持った人と言えるでしょう。

自分の心の真実は自分の中にしか存在しないように、自分の幸せも自分だけのものです。

その幸せを分かち合うかその人の心にあります。

誰もあなたの人生を生きることはできないのですから、意見は聞いても他人の声に惑わされるということは、自分の幸せから一番遠い行為です。

迷った時には家族や友達や恋人など、近しい人に相談することもあると思います。

その時にもらうアドバイスは、解決への提案であって、答えではありません。

あなたに起こる全ての答えはあなたの中にしかありません。

あなたが自分を生きる時、それは力強く輝く幸せを生きる時です。

最強の幸せの法則は、自分の人生を生きるということではないだろうか。

自分を責めず、他を許す心をもっている。
幸せな人というのは、笑顔で周囲の人を幸せにして、さらにその幸せを大きくしている人なのでしょう。

あなたが笑顔でいること。
いろいろと述べてきましたが、自分自身が笑顔でいること。
これが幸せになる為の最大の法則かもしれません。

過ぎたことに拘らず、不満や愚痴をいわない。

どれほど良い条件がそろっていても、どれほど良い環境にいても、どれほど良い人に恵まれていても、今の現実を偏った心で見たり、拘るがゆえに正しい見方ができなかったりするならば、事態が悪化することはあっても、好転していくことはないでしょう。

結果的に幸せを感じることができなくなります。

こうしてみると、幸せであるかないかは自分自身の心の尺度、価値観のなかにあるとしても過言ではありません。

物に対する欲求が強いと幸せから遠ざかります。

欲しいものと必要なものを区別する尺度を身に着けること


価値観の違いが家族の食い違いとなる。

こういったところにも幸不幸を分ける要因が潜んでいますね。

訪問してくださってありがとうございます。

感謝 観童

sen

毎日新聞 1月17日配信から掲載です。2016/1/17 投稿

◇3人に1人が治療に200万円以上を支出

<不妊治療>「まるでギャンブル」高額費用つぎこむ40代

日本の女性が第1子を産む平均年齢はいまや30.6歳。若いうちに子どもを産み育てることが難しくなり、不妊治療を受ける人が増えています。
明治大の藤田結子准教授による解説です。


現在、赤ちゃんの約4人に1人は35歳以上の母親から産まれています。不安定な雇用やキャリアのために、出産を先延ばしした女性も少なくないでしょう。

35歳を過ぎてから運よく、すぐ出産できる人もいますが、妊娠しにくくなる人の割合は増えます。


不妊の検査や治療を受けたことがある夫婦は、20~40代夫婦の6組に1組と言われています。

日本産科婦人科学会によれば、2013年に国内で行われた体外受精の件数は約37万件で、10年前の3倍以上に増えました。


女性の問題と捉えられがちですが、男性側に原因がある場合も少なくありません。

世界保健機関(WHO)は、不妊原因が男性のみにある場合が24%、女性のみが41%、男女ともが24%、不明が11%--という調査結果を報告しています。


不妊治療にはかなりのお金がかかります。

NPO法人Fineの13年調査では、不妊治療費に100万円以上を支払った人が、回答者の過半数を占めました。

また、回答者の3人に1人は200万円以上を支出していました。なぜ人々は、これほど多くのお金を不妊治療につぎ込むのでしょうか。


◇「人工授精」で15万円は序の口

東京都に住む会社員の松本大輔さんと智子さん夫妻(ともに40代、仮名)は、30代半ばで結婚しました。

「子どもは2人欲しいね」と話していましたが、2人とも仕事が忙しく、妊娠・出産についてじっくり話し合う機会がありませんでした。


あるとき智子さんは、「卵子の老化」を警告するテレビ番組を見ました。不安になり、すぐ不妊治療で有名な病院に電話をかけましたが、予約でいっぱい。初診は1カ月半後です。

2人で検査を受けた結果、身体的な問題は見つかりませんでした。そこで、まず器具を使って精子を子宮内へ直接注入する「人工授精」から始めました。

費用は1カ月3万~5万円で、比較的気軽に受けることができる治療です。


大輔さんは自分で精子をカップに出して提出する「採精」に戸惑いましたが、夫妻は5回ほど人口授精を試みました。しかし、妊娠はしませんでした。使った金額は15万円程度。ほんの序の口でした。

◇30万円かけた努力が水の泡

智子さんが40歳になる少し前、夫妻は「体外受精」にステップアップしました。

「体外受精」は、体の外に採り出した卵子に精子をふりかけ、受精させる治療法で、1回30万~50万円程度かかります。

女性が30代前半までなら、状態のよい卵子が数多く採れるので、1回の体外受精で出産する確率は、比較的高い20%程度といわれています。


しかし、智子さんは加齢のため、薬や注射を使っても卵子を2個しか採れませんでした。

そのうえ、大輔さんの精子の運動率も低いことが分かりました。
そのため医師から、顕微鏡下で精子1匹を卵子に直接注入する「顕微授精」をすすめられ、実施しました。

会計時の請求額は、予想を超える25万円。カードで支払いながら、めまいがしました。


できた受精卵(胚)を智子さんの子宮に移植し、2人は緊張しつつ妊娠判定日を待ちました。

が、結果は陰性。妊娠しないうえに、30万円以上がはかなく消え、智子さんは涙を流しました。


◇卵の状態に一喜一憂

「40代で出産に至る、状態のよい卵子が採れる割合は、10個に1個あるかないか。

回数を重ねることが大切、やるかやらないかです」と医師に言われ、松本さん夫妻は体外受精を繰り返します。


「よいグレードの受精卵になりましたよ」--智子さんは、担当医師や培養士から卵の質をほめられると、「やった!」と気分が高揚します。

そして妊娠判定日には「今回もダメだった」とひどく落ち込みます。
それでも、もう1回お金をつぎ込めば「当たり」の卵がでて、赤ちゃんという大きなリターンがあるかもしれないと思い、治療をやめられません。


智子さんは、不妊に効くという高価な漢方薬を購入したり、自分のホルモン数値や卵の成長をブログに記録したりと、ほかの多くの患者と同じように治療にのめり込んでいきました。

1カ月およそ30万円を治療につぎ込んでいるうちに、「まるでギャンブルのように、金銭感覚がまひしてきた」といいます。

2年半で使ったお金は300万円以上。
1度妊娠しましたが、流産し、出産には至っていません。
40代前半女性の体外受精による出産率は、1回1~8%程度。
これ以上お金をつぎ込んでも、子どもを授かる確率は低いのです。


◇治療を通して「不妊治療」をより強く求めるように

明治学院大学の柘植あづみ教授は、「不妊」そのものが身体的苦痛をもたらすのではなく、「文化的・社会的な理由で人々は不妊に苦しむ」と指摘しています。

今の日本社会には、ある程度の年齢になったら結婚し、夫、妻、子ども2人という標準的な家族を持つことが「当然である」という見方があります。

この「普通の」モデルから外れると、周囲から疎外されたり、圧力をかけられたりします。

人によっては、「不妊」という負の烙印(らくいん)を押され、自己評価の低下や、男や女としてのアイデンティティーに悩まされます。

その解決策の一つとして不妊治療を選択するのです。


さらに、不妊治療は役立つ医療ですが、治療そのものが不妊の苦痛を強めることも指摘されています。

治療では、ホルモン数値や精子の数・運動率を繰り返し測ります。
患者は、標準値から外れた自分の数値を目の前につきつけられ、自分の身体がいかに「異常」であるかを確認させられます。


そこで人々はいっそう不妊治療を求めるようになり、多くのお金をつぎ込む、というサイクルに陥るのです。


sen


心のやすらぎ 2016/1/10 投稿

街ゆく人々の表情はというと、喜々としている人、うつむき加減で歩く人、手を取り合って歩く人など様々だ。

だが悩みを抱えていることは表面からは判断できないし、誰もその内面を知ることもないでしょう。

私たちの毎日は穏やかな日ばかりではなく、問題が発生すれば悩んでみたり、心が沈んでみたり、内面的には不満や、愚痴や、怒りや、恨み、妬みなどの不調和な心になることで自分自身が苦しんだり、ときにはそのことによって他人にも苦しい思いをさせることがあります。

相談者と対峙して話しを聞くのですが、向き合ったときその人の心からは微細な振動エネルギー(波動)が私の心に伝わってきます。

この振動エネルギーは、微細とはいってもその波動は粗いものあり、激しいものあり、弱々しいものあり、ネガティブなものありです。

振動(波動)はその人の心の状態を如実にあらわすエネルギーです。

私の心を通して様々な感触となって体に感じられると同時に、その方の心の光として肉体を包んでいる様子がよくわかる。

振動の伝わり方は様々で、心の内面に不調和な想念をもっている方は私の皮膚を刺すような感触で伝わってくるものだし、その不調和な想念の強さによっては胸を拳で強く突かれた感覚さえ感じる時があります。

怒りのある人の場合、心の状態を12色に例えていえば赤に近い色とグレーから黒を伴った色、つまり赤黒いカラー。

したがって感情的起伏の激しさは波動エネルギーとオーラとなって如実に現れますから、その時の心が表現されます。

心はどんなに取り繕ってもそのまま表れるもので隠すことはかなわない。

それでは心の正しさと基準はどこから生まれるのだろうか。

実は正しいことの基準は、心に安らぎが有るか無いかです。

正しいことの基準を知識で学んで知ってはいても、いざとなると怒り狂うということは誰もが経験しているのではと思います。

また私たちが、いくら人に心を合わせてみても、真の意味で心の安らぎが得られないのは本当の意味で
調和されたものに自分の意識(波長)を合わせていないからです。

目の前の出来事や人に心を翻弄されやすいのも人間ですね。

ここに心の学びをする必要があるわけです。

それでは本当の意味で
調和されたものとは何でしょうか。

真の心の安らぎは、その方法として古来より天に意識を向けて自分の心を調えてきました。

天(宇宙)に意識を向けるとはどういうことをいうのか。

それは自然界の流れそのものにあります。

水は高きより低きに流れ、天より地に降り注ぎ、川をながれてやがては大海原にたどり着き、ふたたび天に上ります。

たったこれだけの中に先人たちは宇宙の法則を悟ってきました。
一切は執着なく流れることによって生かされ、生かすという循環の法則です。

人間、かくあるべし。

しかし人間は自我心があるゆえに執着し、己の心を不自由に苦しくさせ、他にも苦しみを与えていくという宇宙の法則とは相反する生き方をします。

天に波長を合わせるとき、宇宙の意識は光エネルギーとなって私たちの心の中にとどきます。

つまり私たちは天に感謝し、己の心の罪を懺悔しながら天に波長を合わせることに根源的な人間の魂の本質があるわけです。

天の意識は大自然における春夏秋冬の営みを見ればわかるように、一切の調和そのもの以外のなにものでもありません。

天に心を向けるとは、執着しない心ということであり、己の心の大調和そのものです。

是非お時間をとって、謙虚に、天に心を向けてみてはどうでしょうか。
自分の善我なる本質、そして偽我なる自分が観えてきます。

心を天にふりむけるとき、瞬時にして宇宙の光エネルギーはあなたの心の光となって、あなたの身体は包まれます。

よく知られているオーラーというのは、私たちが、どれだけ絶対唯一の存在である宇宙意識に同調できているかという程度によって現われてくる、調和された心の輝き度の光といえるでしょう。

「大宇宙の意識に対して、その背景にある絶対唯一の意識に対して『ありがとうございます。我が心の罪をお許しください』と心からいえると、瞬間的に心に安らぎを覚えられるでしょう。

安らぎは、私達の心(魂)に光が伝ってきたとき、そして満たされたときに起る心の至福であります。

こうしてみると天の意識は愛と慈しみそのものであり、光そのものだと悟ることができます。

朝起きた時、夜休む時、仕事を始める時、仕事が終った時、
『ありがとうございます。』と思うことはいつでも出来ます。

私たちは、いつも、天に感謝の心を向ける人となりたいものです。
同時に、「すみません。私が間違っていました。」という謙虚で素直な心と言葉ももっていたいものです。


院長のブログ記事から
『不妊治療の葛藤』詳細を読む




sen


2016/1/3投稿

『逆境にあれば是みな薬』

新年明けましておめでとうございます。
みなさまのご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

これまで私のブログ『観童ブログ』でたくさんの記事を投稿してきましたが、ここで少しブログの投稿を一時休止して、このホームページ内で啓もう活動の一環として記事をアップしていきたいと思います。

きょうがその最初の投稿日になりますが、訪問してくださる方々の参考になれるような内容にしていきたいと思いますので宜しくお願い致します。

さて、私は誕生日がくれば今年で67歳になります。
人はうまく行かないときにどのように生きるかでその人の価値が決まるともいいます。

また
『良事魔多し』という諺が示すように、事が順調にうまくいっている時ほど落とし穴があるものだし、危険が多いものだということでしょうが、これは心の油断や隙を指摘している言葉だと思います。

人生を真剣に生きた人、苦労を乗り越えてきた人、人生経験の長い人の場合はとくに知っているかと思うのですが、逆境のときの苦労はすべて後で自分の薬になるものだと思うのではないでしょうか。

そしてその渦中にあるとき、苦労の真っただ中にあるときには気づかないということも。

事実、私自身が自分の人生を顧みて、その通りだとつくづく感じさせられます。

自分がうまく行かないときに様々な本を読んだりもしましたが、読んでいるときは、なるほどと思いながらもすぐにその言葉が心に残らず飛んでしまっていました。

そしてまた苦境のなかで迷いが生じるのです。

人間は、順境のときには失いやすく、逆境のときには気づけないことが多いものだということをこの年になってようやく深く理解できるようになった次第です。

しかし、その当時に読んだ本は結構な数ありましたが、忘れたとはいっても、少しは今現在も心に残っている著書もあります。

その心に残っている本の内容が今も役に立ち、自分の心の糧になっていることは私の大きな財産であります。

私は58歳で過労による心臓の痙攣が極限状態まで至り、ついに倒れてしまいました。

安静状態でいながら毎日が頻脈100120となって呼吸が苦しく思うようにならず瀕死の状態を経験しました。

自宅の芝生の上で四つん這いになって歩くのがやっとのことで、二本足で立って歩くのが非常に困難な状態が3か月ほど続き、ようやく徐々に歩けるようになったのですが、食べ物が入っていきません。

食べると心拍数があがるのですから食べれません。

循環器科で精密検査をしても心臓には何らの疾患も見つからず、健康な心臓だと言われて終わりです。

薬を飲むとこれまた副作用が辛くて飲めないからお手上げです。

もうこうなると覚悟を決めるしかありませんでした。

寿命があるならいつかは回復するだろう。
不思議とそういう開き直りを決意した翌日から体が好転し始めたのです。

今自分にできるリハビリ、基礎体力作りを少しづつ実践しようと心に決め、毎日少しずつ歩を伸ばし、五分を十分に、十分を20分にというように徐々に時間と距離を伸ばしていきました。

覚悟を決めたことが自分の不安感や恐怖心を緩和させ、それが心と身体に良い刺激となったのでしょう。

三年の歳月を要しましたが、すこぶる健康体に復活できたのであります。

今現在は年齢の割には動きもよく、内臓も健康状態であり、体力も無理をしなければ程々にあります。

こういう経験をしたからこそ他人の健康に対しても、より深くこれまで以上に理解できるようになりました。

楽天的な自分であれば決して体調の良くない人や心の病んでいる人の心を推し量るということができないだろうと思います。

私のこれまでの様々な経験によって、身体の健康問題で苦労されている人、人生に問題を抱えている人など、人様のご苦労が身に染みて感じられるようになりました。

それはただ単に相手の気持ちになれるというだけではなく、相手の屈折した感情や、暗い面も理解できるのです。

もちろんその人の優れているところや感情についてもです。

優しい心を持った人、
信頼できる人間性を持った人、
何かしら不都合があると簡単に逆切れしやすい怒りの心を持った人、
恨みを持ちやすい人、
感情の起伏が大きく精神不安定な人、
傲慢な人、おごり高ぶりやすい人、
こだわりが強く自分の心を不自由にして心病んでいる人等々、
よく人の心が理解できるようになりました。

よく「若い時の苦労は買ってでもしろ」といわれます。


半面、「苦労すると人間がいじける。だからあまり苦労しないほうがいい」というように言う人もいます。

勿論、うまれてからズーッと幸せだけでいられるならいいのかも知れません。

しかし現実は違います。


若いころは非常に恵まれた人生を送っていたのに、晩年は悲惨な生活だったとか、または重篤な病気で若死にしたということもあります。

こうしてみると、人間は、いつも幸せではあり得ないという宿命も背負って生きているということです。

例えば、あなたは「若い時にうまくいって晩年に不幸な人生」と、「若いときは随分と苦労したが、晩年に幸福な人生」とどちらが良いと考えるでしょうか。

私の考えでは、人生の最後に「あ~幸せだな」と思えるような人が一番幸せのように思います。

ですから、若い時に苦労をして、人情の機微を知り、物事に対する価値観を物から心へと昇華できたならどれほど心豊かな人間になれるだろうかと思うのです。

「いや、最後の数年だけ幸せで、それまでが苦労の連続ならつまらない人生ではないか」といわれる方もおられるかもしれませんね。

しかし、そのような意見があるとすれば、それは人間が一生幸福に生きられる、生きなければならないという楽観的、理想的な幸福感の前提に基づいているからだろうと思います。

実際はそのようなことはありませんし、仮にあったとしても極々少ないのだと思います。

昔から言います。
苦あれば楽あり、楽あれば苦あり、と。

このように考えると、若い時の自分を鍛え、心の財産を蓄積していきます。

そして晩年の幸せを約束してくれるものだと思います。

人生は誰にとっても楽ではありません。

楽な人生がどこかにあると思うから現実から逃げたくもなるだろうし、苦しみにも耐えるのが辛くなるのです。

いつかは完済しなければならない借金をいま払っていると考えることができて忍耐するならば、今の苦労が苦労ではなくなり、必ずや本当の幸せを実感できる日がくるでありましょう。

ある人が、「若い時に汗を流さないと、年を取ってから、それが涙になって出て来る」と言いました。

汗を流すことに老若男女の違いはありません。

汗はいつ流してもいいものです。
いまのうちに汗を流して生きましょう。

そして、自分の子供たちにもそれを伝えていきたいものです。

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